374. 「血の叫び」とは、仁愛に加えられた暴力を意味することは、〈みことば〉の中の多くの箇所に見られます。「叫び(または声)」とは、訴えるものすべてです。「血」とは罪、とくに憎しみのすべてです。兄弟にたいして憎しみを抱く者は、心の中でかれを殺します。主も教えられます。
「昔の人に言われているが、あなたは殺してはならない。殺す者は裁判を受けねばならないとあるのは、あなた方も聞いているところである。しかしわたしは言うが、自分の兄弟にたいして、理由なく怒る者は、裁かれねばならない。自分の兄弟にたいして、愚か者と言う者は、議会に引き渡される。ばか者という者は、地獄の火に投げ入れられる」(マタイ 5:21, 22)。
ここで、憎しみにも段階があるのが分かります。憎しみは仁愛の正反対で、手を使うか、心を使うか、いずれにしても殺人です。手を使うのを禁じる外的制約があるだけですから、あらゆる憎しみは、血になります。エレミヤは言います。
「愛を求めて、あなたはどれほどうまく自分の道を作るだろう。・・・純真で乏しい者たちの魂の血が、あなたの衣服の裾に見出される」(エレミヤ 2:33, 34)。
② 憎しみが「血」であれば、すべての罪悪は血です。あらゆる罪科(ざいか)の泉は憎しみだからです。ホセア書には、次のようにあります。
「かれらは偽りの誓い、嘘、殺人、窃盗、姦淫、強盗、および血に血を加えた。さらに地は嘆き、そこに住む者はみな絶え果てるであろう」(ホセア 4:2, 3)。エゼキエル書にあります。
「あなたは血の町を裁くつもりか。あなたは、その町に憎むべきことを知らせるつもりか。・・・町はその真中で、血を流している。・・・あなたが流した血によって、有罪となった」(エゼキエル 22:2-4, 6, 9)。
これは無慈悲を示します。同じくエゼキエル書では、
「全地は、血の裁きを待っている。町は暴力でいっぱいである」(エゼキエル 7:23)。
エレミヤ書には、
「エルサレムの預言者たちの罪のためである。その祭司たちの罪科のためである。かれらはその真中で義人たちの血を流した。広場では、かれらは盲目な人たちのようにさまよい、血で汚れている」(哀歌 4:13, 14)。
イザヤ書には、
「主がシオンの娘たちの汚れを洗う時、裁きの霊、焼き尽くす霊をもって、その中からエルサレムの血を洗い流される」(イザヤ 4:4)。同じく、
「あなた方の手は血で汚された。あなたがたの指は罪科で汚れている」(イザヤ 59:3)。
エゼキエル書には、
「わたしはあなたの傍らを通り過ぎ、あなたが自分の血の中で踏みつけられているのを見た。わたしはあなたに言った、あなたの血の中で生きなさい。あなたの血の中で生きなさい、と」(エゼキエル 16:6, 22)。
ここで言及されているのは、〈エルサレムの憎むべきこと〉を指し、それが「血」と命名されています。黙示録 16:3, 4にあるように、終わりの時代の無慈悲と憎しみは、血をもって描かれます。血と複数になっていますが、それは憎しみから、あらゆる種類の罪悪と忌むべき事柄が流れ出てくるからです。
それは愛から、あらゆる種類の善と聖なるものが出てくるのと似ています。したがって、隣人にたいして憎しみを持っている者は、できたら殺したいと思っています。そして何らかの方法で、殺していることになります。すなわち暴力を加えるわけで、それが「血の叫び」という言葉になります。