天界の秘義 #5275

От Емануел Сведенборг

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5275. 「見よ、七年がやってきます」とは、摂理的な状態を指します。「年」には、状態という意味があります(487,488,493,893節)。「やってくる」とは、摂理に属することを示します。つまり、神的なものや神のなさることを修飾する際、「やって来る」あるいは「成就する」は、み摂理から生じたこと、結局は、み摂理に属することになります。神のなさることこそ摂理であるとの事実は、前述の5264,5273節を参照してください。

これから述べる事柄は、七年間の豊作と、七年間の飢饉がテーマです。ここで「年」は状態を指します。「年々の豊作」は、自然的なものの中で、真理が増し加わることを指し、「飢饉の年」とは、自然的なものの中で、真理が欠如し、喪失していく状態を指します。

内的意味の上で、一般に「エジプトの地における七年間の豊作と、七年間の飢饉」というと、人の自己改革と再生の状態が特記されますが、最高の意味では、主の人間性の栄化の状態が浮き彫りにされます。エジプトの地で、以上が実際生じたのは、それを表象的にあらわすためでした。しかもエジプトの地で起こったのは、「エジプトの地」とか「パロ」というと、その内的意味で、自然的なもの を指すからで、しかも自然的なものに、主の栄化がおよぶことが焦点になっています。

② 忘れてならないのは、次のとおりです。すなわち、当時実際に起こり、〈みことば〉に記録されたことは、主ご自身と、主の人間性の栄化の表象だったということです。また表象的な意味では、主のみ国をあらわし、それに続いて、教会一般と個別的教会をあらわし、その結果、人間の再生をあらわすことになります。再生とは、個々の教会である人間個人の問題だからです。

その当時起こった事件が、表象的なものであったわけは、何よりもまず、〈みことば〉として記録されるためであり、こうして、〈みことば〉の中に、神的なもの、天的なもの、霊的なものが、一連の流れの中で、表象されるためであり、こうして、教会に属する人だけでなく、天界の天使たちのために、役立つものとなるためでした。

というのは、天使たちは、そこから神的なものを感知します。かれらはまた、情愛を込めて〈みことば〉を読む人に伝わる聖なるものによって、感化されますが、当人にとっても、それは聖なるものとなります。エジプトの地で、以上のような事件が起こったことには、そのような理由があります。

  
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