天界の秘義 #2702

Par Emanuel Swedenborg

Étudier ce passage

  
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2702. 「するとかの女は、水の井戸を見た」とは、諸真理の出所であるエホバの〈みことば〉を意味します。つまり「水の井戸」や「泉」は、〈みことば〉あるいは〈みことば〉からの教義、結局は、後述の〈真理それ自身〉を意味し、「水」が真理を意味するためです。水のある「井戸」や「泉」は、主の〈みことば〉であり、〈みことば〉由来の教義であり、結局は真理そのものであることは、多くの箇所から明らかです。ここでは霊的教会がテーマですから、泉でなく「井戸」になっています。本章の次の箇所からも明らかです。

「アブラハムは、アビメレクのしもべたちが、水の井戸を奪い取ったため、アビメルクを責めた」(本章第25節)。創世記第26章にあります。

「イサクの父の僕たちが、イサクの父アブラハムのとき掘った井戸を、ペリシテ人が全部埋めた。・・・イサクは戻り、父アブラハムの時掘り、かれの死後ペリシテ人が埋めた井戸を掘り起こした。・・・イサクの僕たちは谷間で掘り、そこで生ける水の井戸を見つけた。・・・他の井戸を掘ったが、それで争った。・・・そこから移って他の井戸を掘ったが、そこでは争わなかった。その日に起こったことであるが、イサクの僕たちが来て、掘った井戸について、イサクに告げ、われわれは水を見つけみつけました、と言った」(第15,18-22,25,32節)。

上掲で「井戸」は教義事項を示します。かれらは、それで争ったり争わなかったりしました。井戸は教義を示します。そうでなければ、井戸を掘ることでの度重なる争いについて、神の〈みことば〉に記す必要はなかったでしょう。

② 「井戸」はまた〈みことば〉や教義を意味することは、モーセの書で次のようにあります。

「かれらは、そこからベエルへ進んで行った。これはエホバがモーセにむかって、民を集めよ。わたしはかれらに水を与えるであろうと言われた井戸である。その時イスラエルは、この歌をうたった。井戸の水よ、わきあがれ、と。それは、かれらの立法者のもと、杖にあるつかさたちが、この井戸を掘り、民の有志たちがこれを掘った」(民数記 21:16-18)。

「井戸」には以上のような意味があるため、イスラエルの預言的詩歌では、真理の教義がテーマになります。それは内的意味における一語一語から明らかです。したがって、ベエルあるいはベエルシバの名称は、その内的意味上、教義そのものを示します。

③ 真理の内在しない教義は、「ほら穴」、あるいは空井戸と言われます。エレミヤ書には、次のようにあります。

「その君たちは、しもべをつかわして水をくませる。かれらがほら穴の所にきても水は見つからず、むなしい器をもって帰る」(エレミヤ 14:3)。

上掲では、「水」は諸真理を、「水の見つからなかったほら穴」とは、真理の含まれていない教義です。同じく、

「わたしの民は、二つの悪を行った。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で穴を掘った。それはこわれた穴で、水を入れておくことはできない」(エレミヤ 2:13)。

上掲で、「穴」とは、真理の含まれない教義です。「こわれた穴」とは、掠奪された教義事項を示します。

④ 「泉」とは〈みことば〉です。それは教義であり、真理です。イザヤ書には、次のようにあります。

「貧しい者・乏しい者が水を求めても、水はない。舌が渇いて焼ける。エホバなるわたしは、かれらに応える。イスラエルの神なるわたしは、かれらを捨てない。わたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉をいだし、荒野を池となし、乾いた地を水の源とする」(イザヤ 41:17,18)。

上掲は、真理の荒涼を扱っています。「貧しい者・乏しい者が水を求めても、水はない。舌が渇いて焼ける」とは、そのことです。それで慰めと生気回復と、荒涼のあとの教化が行われます。「エホバは、裸の山に川を開き、谷の中に泉をいだし、荒野を池となし、乾いた地を水の源とする」という言い方で、ハガルについて記してある言葉にもあります。すなわち万事は、真理の教義とそこからくる情愛を表わします。

⑤ モーセの書には、次のようにあります。

「イスラエルは、ヤコブの泉と穀物と新酒の地に、ひとりいてやすらかに住む。また天は、露をくだす」(申命記 33:28)。

「ヤコブの泉」とは、〈みことば〉であり、それに由来する真理の教義です。ヤコブの泉が〈みことば〉であり、そこからくる真理の教義であるため、主はヤコブの泉に来られ、サマリヤ出身の女性と語られました。そして泉や水の意味を教えられました。それについて、ヨハネ福音書には、次のようにあります。

「イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。・・・そこにヤコブの泉があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この泉のそばにすわっておられた。・・・ひとりのサマリヤの女が水を汲みにきたので、イエスはこの女に、水を飲ませて下さいと言われた。・・・イエスは答えて言われた。もしあなたが神の賜物を知り、水を飲ませてくれと言った者がだれか知っていたら、あなたの方から願って、その人から生ける水を受けるはずである。・・・この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲む者は、永遠に渇かない。わたしが与える水は、その人のうちで泉となって、永遠の〈いのち〉にいたる水が湧き出る」(ヨハネ 4:5-7,10,13,14)。

「ヤコブの泉」は〈みことば〉を、「水」は真理を、「サマリヤ」は霊的教会を意味することは、〈みことば〉の多くの箇所にある通りです。それで主は、サマリヤ出身の女性と話し、真理の教義がご自身によるものである事実を教えられました。またご自身に依存するとき、つまり主の〈みことば〉に依存すると、「永遠の〈いのち〉にむかって湧き出る水の泉」があり、「生ける水」とは、真理自身であることを教えられました。

⑥ 同じく、次のようにあります。

「イエスは言われた。だれでも渇く者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書にあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る、と」(ヨハネ 7:37,38)。

同じく、

「玉座の正面にいます小羊は、かれらの牧者となって、生ける水の泉に導いて下さる。また神は、かれらの目から涙をことごとく拭いとって下さる」(黙示録 7:17)。

また同じく、

「渇いている者には、いのちの水の泉から、ただで飲ませる」(黙示録 21:6)。

「生ける水の川」、あるいは「生ける水の泉」とは、主、すなわち主の〈みことば〉からの諸真理を指します。主こそ〈みことば〉です。愛と仁愛の善は、主おひとりから出るもので、真理の〈いのち〉です。「渇く者」とは、愛と真理への情愛の中にいる人を指します。それ以外のものは、渇くことはありません。

⑦ 「救いの泉」とは、その真理を指します。イザヤ書には、次のようにあります。

「あなた方は、喜びをもって、救の泉から水をくむ。その日、あなた方は言う。エホバに感謝せよ。そのみ名を呼べ、と」(イザヤ 12:3,4)。

「泉」とは、〈みことば〉、またはそこからくる教義を指します。ヨエル書からも明らかです。

「その日には、山々は新酒がしたたり、丘は乳を流し、ユダの川はみな水を流す。泉はエホバの家から出て、シッテムの谷をうるおす」(ヨエル 3:18)。

「水」は諸真理を表わし、「エホバの家からの泉」は、主の〈みことば〉を表わします。

⑧ エレミヤ書には、次のようにあります。

「見よ、わたしはかれらを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める。その中には、目の見えない人、歩けない人もいる。・・・かれらは泣きながら帰って来る。わたしは、祈りの中で、かれらをまっすぐな道にある水の泉に行かせる。つまずくことはない」(エレミヤ 31:8,9)。

「まっすぐな道にある水の泉」とは、真理の諸教義であることは明らかです。「北の国」とは、真理にたいする無知、すなわち荒涼です。「水の泉に行かせる」とは、諸真理の中で生気をとりもどし、教化されることです。これはハガルとその息子について言われているところと同じです。

⑨ イザヤ書には、次のようにあります。

「荒野と乾ける地とは楽しみ、砂漠は喜んでバラのような花を咲かせる。草木は増え、喜び楽しみ歌う。レバノンの栄光が与えられ、カルメルとシャロンの名誉が与えられる。かれらはエホバの栄光を見、われわれの神の誉れを見る。あなた方は弱った手を強くし、よろめくひざを強くせよ。・・・見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。・・・荒野に水が湧き、砂漠に川が流れる。焼けた砂地は池となり、乾いた地には、水が湧き出る」(イザヤ 35:1-3,5-7)。

「荒野」とは、真理の荒涼を指します。「水、川、池、水が湧き出る」は、荒廃の中にあった人にとって、生気をとりもどす〈よろこび〉の諸真理を指します。

上掲では、かれらの〈よろこび〉が豊富に記されます。

⑩ ダビデの書には、次のようにあります。

「エホバは、泉を谷にわき出させ、山々の間に流れさせ、野のすべての動物に飲ませられる。野のロバも渇きをいやす。・・・あなたはその高殿から、もろもろの山に水を注がれる」(詩篇 104:10,11,13)。

「泉」とは諸真理を指します。「山々」とは、善と真理との愛を示します。「飲ませられる」とは、教えられることです。「野の動物」とは、それによって生きる人々です(774,841,908節参照)。「ロバ」とは、合理的真理の中にだけいる人々を表わします(1949-1951節)。

⑪ モーセの書には、次のようにあります。

「ヨセフは実を結ぶ息子、泉のほとりの実のなる息子である」(創世記 49:22)。

「泉」とは主に依存する教義を指します。同じく、

「あなたの神エホバが、あなたを良い地に導き入れられる。そこは、谷と山に、わき出る水の流れ、泉、淵のある地である」(申命記 8:7)。

「地」とは、主のみ国であり教会です(662,1066,1067,1262,1413,2571節)。それが「良い」と言われているのは、愛と仁愛の善によります。「川」、「水」、「泉」、「淵」は、それに由来する真理を言います。同じく、

「カナンの地、山々と谷の地で、天から降る雨で潤っている」(申命記 11:11)。

⑫ 「水」とは霊的真理、合理的真理、さらに科学的真理を指します。イザヤ書からもはっきりしています。

「見よ、万軍のエホバなる主は、エルサレムとユダから・・・パンと水のあらゆる補給を取り去られる」(イザヤ 3:1)。

同じく、

「渇いた者には、水を提供し、逃げのびた者を、パンをもって迎えよ」(イザヤ 21:14)。

同じく、

「水のほとり全域に種を蒔くあなた方は、さいわいである」(イザヤ 32:20)。

同じく、

「正義の中に歩み、正直に語る者は、・・・高みに住むであろう。そのパンは与えられ、その水はたしかである」(イザヤ 33:15,16)。

同じく、

「そのとき、かれらは渇くことはない。荒野でかれらを導かれる。かれらのために、岩から水が溢れる。岩を砕き,水は溢れる」(イザヤ 48:21出エジプト 17:1-8民数 20:11,13)。

ダビデの書には、次のようにあります。

「荒野で岩を裂き、豊かに淵から飲むように飲ませ、岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられる」(詩篇 78:15,16)。

上掲では、「岩」とは主を指します。「水、流れ、淵」は、主からの諸真理を指します。

⑬ 同じく、

「エホバは川を荒野に、泉を乾燥地に変らせる。・・・エホバは荒野を水の池に変らせ、乾燥地を泉に変らせる」(詩篇 107:33,35)。

同じく、

「エホバのみ声は、水の上にあり、エホバは大水の上におられる」(詩篇 29:3)。

同じく、

「川がある。流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる」(詩篇 46:4)。

同じく、

「もろもろの天は、エホバの〈みことば〉によって造られ、その万軍はエホバの口の息によって造られた。エホバは海の水を水甕(みずかめ)に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた」(詩篇 33:6,7)。

同じく、

「あなたは地に臨んで、これを喜び、大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている」(詩篇 65:9)。

同じく、

「神よ、水はあなたを見た。水はあなたを見て、・・・淵もまた震えた。雲は水を注ぎだし、・・・ あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は水の中にある」(詩篇 77:16,17,19)。

上掲で、「水」と言っても水のことではなく、「淵が震える」また「エホバの道は海の中、小道は水の中」と言っても文字通りでないことは、だれにも分かります。これは霊的水、つまりは真理の霊的なものを指します。そうでなければ、無益な語句の累積でしかありません。イザヤ書には、次のようにあります。

「さあ、渇いている者は、みな水に来なさい。銀(かね)のない者も来て買い求めなさい」(イザヤ 55:1)。

ゼカリヤ書には、次のようにあります。

「その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れる」(ゼカリヤ 14:8)。

⑭ それ以外にも、〈みことば〉では、植え付けられるはずの教会や、植え付けられた教会について、楽園、庭園、森、樹木を用いて描写します。また通常、灌漑(かんがい)用の水や川で表わすのは、真理に属する霊的なもの、合理的なもの、科学的なものです。創世記第2章8,9節にある楽園は、「川」があります(第10-14節)。これは英知と理知にかんするものを表わします(107-121節参照)。その他にも、〈みことば〉には多くの箇所があります。モーセの書には、次のようにあります。

「谷間に樹木が植えられるように、流れに沿った庭園のように、エホバが植えられた沈香樹のように、水のほとりの香柏のようである。水はその甕から溢れ、その種は、水に潤っている」(民数記 24:6,7)。

エゼキエル書には、次のようにあります。

「地の種をとって、種蒔き用の土に植えた。水の多い所に植えたが、成長して、はびこるブドウの木となった」(エゼキエル 17:5,6)。

「ブドウの木」とか「ブドウ畑」とは、霊的教会を指します(1069節)。

「あなたの母は、あなたに似たブドウの木で、水のほとりに植えられ、水が多いために、実りがよく、枝がはびこった」(エゼキエル 19:10)。

同じく、

「見よ、レバノンのアシュル。・・・水がそれを成長させた。淵がそれを高くした。多くの流れは、植えられたまわりを巡る。その水路を畑の樹木すべてに行き渡らせる」(エゼキエル 31:3)。

⑮ 同じく、

「見よ、川の岸のあちこちに、非常に多くの木があった。かれはわたしに言った。この水は東の境に流れて行き、平地にくだり落ち、よどんだ海にはいると、その水は清くなる。すべての這う有魂生物がいて、二つの川が流れてくるところ全域で生き、多くの魚がいる。その水が入ると、海水を清くするからである。この川の流れる所で、すべてのものが生きている。・・・その湿地と沼地とは、清くならない。塩化するからである」(エゼキエル 47:7-9,11)。

上掲は、新しいエルサレム、すなわち主の霊的王国について触れています。

「水は東の境に流れて行く」とは、天的なものに依拠する霊的なものを指します。それは天的起源をもつ真理、すなわち愛と仁愛に根ざす信仰です(101,1250節)。「平地にくだり落ちる」とは、合理的な教義事項を指します(2418,2450節)。「海にはいる」とは、科学知に向かうことです。「海」は、科学知の集積を示します(28節)。「這う有魂生物」とは、科学知の喜ぶところを意味します(746,909,994節)。それは「川の水によって」、つまり天的起源をもつ霊的なもので生きているからです。

「多くの魚」とは、応用可能な科学知が多量にあることを言います(40,991節)。「湿地と沼地」とは、応用が不可能で、汚れたものを意味します。「塩化する」とは、荒廃することです(2455節)。エレミヤ書には、次のようにあります。

「エホバに頼り、エホバに信頼する人はさいわいである。・・・かれは水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばす」(エレミヤ 17:7,8)。

ダビデの書には、次のようにあります。

「流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結ぶ」(詩篇 1:3)。

ヨハネによると、「水晶のように輝く〈いのち〉の水の川を、わたしに見せてくれた。この川は、神と小ヒツジのみ座から出ている。都の大通りと川の中央、こちら側とあちら側に〈いのち〉の木があり、十二種の実を結ぶ」(黙示録 22:1,2)。

⑯ 上掲で「水」は内的意味での諸真理を表わします。そのため霊的な目的で、祭儀を目指したユダヤ教会では、天使たちの目前での表象として、祭司やレビ人たちが祭儀を執行するために近づいていくとき、水で身を洗いました。天幕と祭壇との間にある水盤を用いたり、後になって青銅の海 や神殿の周囲にあるその他の水槽を用いたりしました。これは泉の代わりです。

同様に、表象のために制定されたものもあります。「レビ人たちにたいして散水された罪の水、すなわち浄化の水」(民数記 8:7)、また「赤毛の雌ウシの灰を用いた仕分けの水」(民数記 19:2-19)、そして「ミデアン人からの捕獲物を清める水」(民数記 31:19-25)です。

⑰ さらに、「岩から湧き出た水」(出エジプト 17:1-8民数 20:1-13)は、主からいただく霊的なもの・信仰上の諸真理が豊富にあることを表象・含意します。また、「木によって癒された苦水」(出エジプト 15:22-25)は、み心にかなわない諸真理を表象・含意します。それも善と善の情愛から、喜ばれ、受け入れられるものとなります。「木」が情愛すなわち意志に属する善を意味することについては、643節を参照してください。

以上から〈みことば〉における「水」には、どのような意味があるか分かります。また「バプテスマの水」の意味も分かります。主はヨハネを通して、次のように言われました。

「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ 3:5)。

上掲で、「水」は霊的なもの、「霊」はその天的なものを意味します。したがって、洗礼(バプテスマ)は、信仰の諸真理と善を通して、主のみ力によって、人が再生する象徴になります。洗礼そのものは再生ではありません。再生が行われるのは、〈いのち〉によります。〈みことば〉に由来する信仰の真理を所有するキリスト信者が受ける洗礼は、その〈いのち〉を指します。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.