第16章
弟子たちへの最後の言葉
1.わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたにつまずきを与えないためである。
2.彼らはあなたがたを会堂から追い出そうとするが、あなたがたを殺す者はみな、神に奉仕をささげたと思うようになる時が来る。
3.彼らは父もわたしも知らないからである。
4.しかし、これらのことは、わたしがあなたがたに言ったのであるから、時が来たときに、あなたがたに思い出してもらうために、わたしがあなたがたに話したのである。
イエスは地上におられた間、多くの奇跡を行われた。水をぶどう酒に変え、海を静め、大勢の人々に食事を与え、病人をいやし、死者をよみがえらせた。しかし何よりも、イエスは真理を教えることによって人々を救うために来られた。たとえイエスが多くの奇跡を起こしたとしても、すべての奇跡は主に霊的な教えであった。イエスはこれらの奇跡を通して、神がどのように私たちをあらゆる霊的な病から癒し、神の真理の水で私たちを清め、神の愛のパンで私たちを養い、新しい命へと回復させてくださるかを示されたのである。 1
イエスがベテスダの池で人を癒した直後に言われたように、「死人が神の子の声を聞く時が来る。ヨハネによる福音書5:26). 神の子の声を聞く」とは、イエスが教える真理を受け取り、それを自分の人生に取り入れることである。これが救いである。だから、イエスはベテスダの池にいた人に、そして私たちすべての人に、「これらのことをあなたがたに言うのは、あなたがたが救われるためである」(ヨハネによる福音書5:34). 2
私たちが救われるために、イエスはこれらのことを言われるのだ、というこの考えは、イエスの第一の使命に関係している。それは、ご自分が教えることを通して人類を救うことである。このことは、別れの講話で特に明らかになる。弟子たちに対するこの最後の言葉の中で、イエスは彼らが知る必要のある最も重要なこと、つまり彼らの救いに必要なことを教え続けている。足を洗った後、イエスは弟子たちに言われた。ヨハネによる福音書13:17). それに従って生きる喜びを経験する前に、彼らはまずイエスが教えられた真理を知らなければならない。
さて、別れの講話の終わりに近づくにつれ、イエスは再び弟子たちに、ご自分が教えてこられたことに集中し続けるようにと念を押される。この章の冒頭でイエスが言われたように、「わたしがあなたがたに話したのは、つまずかないためである」(ヨハネによる福音書16:1). イエスは、弟子たちが大きな困難に遭遇し、信仰が試されることを知っておられる。それゆえ、イエスは弟子たちに言われる、「彼らはあなたがたを会堂から追い出し、あなたがたを殺す者は、神に仕えていると思うであろう」(ヨハネによる福音書16:2).
聖なる象徴において、弟子たちは、イエスが教える真理に従って謙虚に生きるすべての人を象徴している。しかし、弟子たちを会堂から追い出そうとする人々と同じように、私たちの中にも真理を聞こうとせず、真理に従って生きることに抵抗する部分がある。主に導かれるのではなく、私利私欲に導かれ、むしろ真理から目を背け、避け、破壊しようとさえする。これが、イエスの警告の内なる意味である。"彼らはあなたがたを会堂から追い出し、あなたがたを殺す者は、神に奉仕していると思うだろう"。 3
イエスは次に、なぜ彼らが弟子たちにこのようなことをするのかを説明される。彼らは、父もわたしも知らないから、あなたがたにこのようなことをするのです」(ヨハネによる福音書16:3). ここで "父 "は神の愛を表し、イエスは神の真理を表している。私たち自身の人生においても、何が善であり真実であるかという理解が、私利私欲によって歪められたり、他人の説得力によって偽られたりすることがあるかもしれない。そのような時、私たちはイエスを拒絶し、会堂から追い出し、イエスが私たちにもたらすために来られた真理を破壊してきた。そのすべてが、"彼らは父もわたしも知らない "という短い言葉に含まれている。 4
これらは弟子たちに待ち受ける霊的な闘いである。従って、弟子たちは、これから起こるこれらのことを知ることが肝要である。イエスが彼らに言われたように、「わたしがこれらのことを話したのは、時が来たときに、わたしがこれらのことを話したことを思い出すためである」(ヨハネによる福音書16:4). そしてイエスは、迫害の到来をなぜ今になって告げたのかを説明される。これらのことは、わたしがあなたがたと共にいたので、初めには告げなかった。しかし、今、わたしは、わたしを遣わされた方のもとに去って行く」(ヨハネによる福音書16:4-5).
ほとんどの場合、スピリチュアルな生活の始まりは刺激的な時である。新しい真理を学ぶことはスリリングなことであり、私たちの低次の本性の欲望に再び屈することはないだろうという気持ちが伴うことが多い。たとえ神の御言葉が迫害の到来について語っていても、それは私たちには当てはまらないように思える。神から切り離されたと感じる誘惑の時など、想像すらできない。しかし、私たちが信じていることに従って生きることを試される時は来る。そのようなとき、たとえ主が私たちとともにいてくださるとしても、私たちは自分ひとりで生きているように感じるだろう。
それゆえ、イエスが弟子たちに「これらのことは、わたしがあなた方といっしょにいたので、初めには言わなかった。しかし今、弟子たちは、特にイエスが不在のように見えるので、間もなく起こる迫害について知る時が来た。その時、イエスを憎んできたすべての人々の激しい怒りが、イエスの弟子たちに向けられる。ですから、弟子たちは備えなければなりません。別れの講話のこの部分を始めるときにイエスが言われたことを繰り返せば、"これらのことをあなたがたに話したのは、つまずかせないためである"。 5
実践編
イエスは別れの講話の最終章を始めるにあたり、弟子たちに迫害が来ることを告げられた。弟子たちがつまずかないように、このようなことを伝えているのだという。弟子たちと同じように、私たちも自分の深い確信に挑戦するような状況が起こることを知っておく必要がある。例えば、何かが起こったり、何か言われたりして、それが即座に感情的な反応を引き起こすかもしれない。突然、私たちは自分を守り、恐れ、怒り、傷つけ、憤りを感じる。このような、どこからともなくやってくるような不意打ちは、私たちを油断させる。そんなとき、ネガティブな思考や感情に待ち伏せされ、つまずきそうになる。そこで実践的な方法として、避けられない待ち伏せが来たときに思い出すことのできる聖句を選びましょう。その聖句をメモ用紙に書き、日中持ち歩いてください。例えば、次のような聖句を使うのだ:「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。わたしはあなたとともにいる。わたしはあなたがたの神である。わたしはあなたがたを強め、あなたがたを助ける」(イザヤ書41:10). あるいは、単に「静まれ、わたしが神であることを知れ」(詩編46:10). 6
罪、義、裁き
5.あなたがたはだれもわたしに尋ねない。
6.わたしは,あなたがたにこれらのことを話した。
7.もしわたしが去って行かなければ、慰め主はあなたがたのところに来ない。
8.もしわたしが去らなければ、慰め主はあなたがたに来ないであろう;
9.それは、彼らがわたしを信じないからである;
10.わたしが父のもとに去ると、あなたがたはもうわたしを見ないからである;
11.この世の王子が裁かれるからである。
これらの警告を発した後、イエスは弟子たちに、ご自分がもうすぐ旅立たれることを思い起こさせる。イエスは、「わたしは今、わたしを遣わされた方のもとに去って行く」(ヨハネによる福音書16:5). そして、イエスはこう付け加えた。"あなたがたの中で、わたしに『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない"(ヨハネによる福音書16:5). 一見すると、これは混乱を招くかもしれない。結局のところ、イエスがご自分が去って行かれることを最初に弟子たちに告げられたとき、ペテロは「主よ、どこへ行かれるのですか」と言ったのである(「主よ、どこへ行かれるのですか」)。ヨハネによる福音書13:36). その数節後、トマスは言った。"主よ、私たちは、あなたがどこへ行こうとしておられるのか知りません。"(ヨハネによる福音書14:5).
ペテロとトマスがすでにイエスの行き先について尋ねていたのは事実だが、彼らの質問はイエスやイエスに何が起こるかについてのものではなかった。むしろ、彼らの懸念は、イエスの物理的な存在なしでどのように管理するかについてだった。彼らはどうなるのだろう?イエスがいなくなったらどうするのだろう?どこに行けばいいのだろう?イエスはこう言われた。"わたしがこれらのことをあなたがたに言ったので、悲しみがあなたがたの心を満たした "と。にもかかわらず、次の瞬間、イエスは慰めの言葉を述べる。「本当のことを言う。「もしわたしが立ち去らなければ、助け主はあなたがたのところには来ない。ヨハネによる福音書16:7).
私たちの人生には、学ぶことから実行することへと移行しなければならない時が訪れる。弟子たちにとってもそうである。弟子たちがステップアップできるように、イエスはいわば身を引くことになる。しかし、たとえイエスが肉体的には弟子たちとともにいなくても、イエスはさらに深い意味で弟子たちとともにおられる:イエスは霊において彼らと共におられる。このようにして、イエスは彼らの理解を深め、教えられた真理を適用するよう彼らを鼓舞し続けられるので、彼らの確信は強められる。このようにして、彼らは新しい意志を育てていくのだ。イエスは彼らに、「今度は、私が教えたことをすべて実践する番だ。心配しないで。最も困難なときでも、私はあなたのそばにいる。それでも私はあなたを助ける。 7
これが "助け主 "である。これは、イエスが彼らの記憶に呼び起こす真理を通して、イエスが彼らを内側からどのように助けるかを指している。助け主が "真理の霊 "とも呼ばれるのはこのためである。それは、神の聖霊が彼らとともにいて、イエスが彼らに教えたすべてのことを思い起こさせ、彼らを啓発し、彼らの努力を忍耐させるように鼓舞することである。 8
これらすべては、聖霊(助け主)が私たちのもとに来られたときに起こることの一部である。悟りがあり、インスピレーションがある。しかし、それ以外にも何かがある。イエスはこう言っている:「わたしは助け主をあなたがたに遣わす。そして、その方が来られると、世に罪と義と裁きとを告げ知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16:8).
Convicted of sin
イエスは今、助け主が世に罪と義と裁きを告げ知らせる、と言われた。その第一は、「世に罪を告げる」ことである。その理由は、「彼らがわたしを信じないから」だとイエスは言われる(ヨハネによる福音書16:9). 確信犯」と訳されているギリシャ語は?[e-leng-si-eye]である。この言葉には、自分の罪が突然証明されるとか、自分の不義が突然露呈するといった意味がある。他にも、叱られる、諭される、非難されるといった意味もある。特に、真理に反する生き方をしていたことに突然気づくような場合はそうだ。イエスが言うように、助け主は "彼らがわたしを信じないので "世に罪を宣告する。
イエスが「彼らはわたしを信じない」と言うとき、イエスは抽象的な信仰表明や特定の信条への忠誠宣言について語っているのではない。イエスの戒めに従った生活について語っているのだ。別れの挨拶の冒頭で弟子たちに言われたように、「わたしを愛しているなら、わたしの戒めを守りなさい」(ヨハネによる福音書14:15). 数節後、イエスはこのテーマに戻って、「わたしの戒めを持ち、それを守る者は、わたしを愛する者である」(ヨハネによる福音書14:21). そして、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」(ヨハネによる福音書14:24). 簡単に言えば、イエスの教えに従って生活することで、イエスへの信仰を示すのです。 9
罪を確信する」とは、私たちが神の戒めを守っていないこと、神の言葉に従って生きていないことに気づく時、あるいはその瞬間を指す。私たちは、"今自分がしたことは、自分がなりたい人間ではない。"とか、"あの人との話し方は、自分がしたい人との接し方ではない。"とか、"今自分の心の中にあるこの思いは、自分がしたい思いではない。"と気づくかもしれない。このような瞬間、私たちは神の命令から離れて生きてきたことに気づき、深く反省する。これが "良心の呵責にさいなまれる "ということであり、イエスが言うように、助け主が "世に罪を告げる "ということなのだ。 10
この文脈で重要なのは、まず罪とは何かを知らなければ、「良心の呵責」や「罪の確信」を得ることはできないということだ。霊性が戒めから始まるのはそのためだ。戒律は最も簡潔な形で、どのような悪が罪であるかを教えてくれる。十戒で基礎が築かれたら、みことば、特にその霊的な意味を継続的に学び、その過程で学んだ真理を実践することによって、これを深めることができる。
徐々に、個人が自分の意図する悪をより内面的に見るようになり、それらから遠ざかるにつれて、霊的な性格がより発達する。最終的には、悪を嫌い善を愛し、偽りを嫌い真理を愛するようになる。こうしてスピリチュアルな生活が身につく。そしてこれが、人々が "罪を確信する "ということを経験することを可能にするのである。 11
Convicted of righteousness
人は、自分が罪深い生活、つまり神の戒めに反する生活をしていることに気づいたら、自分のやり方を変えようと決心するかもしれない。戒めを守り始めると、神を第一に考え、神の御名を無駄にしないようにし、安息日を覚えて聖なるものとし、父と母を敬うようになる。さらに、殺人、姦淫、盗み、嘘、貪欲などのあらゆる欲望に抵抗するように努める。
これは良い始まりではあるが、新たな問題が生じる。イエスがもたらすために来られた義が、最初は彼ら自身の義に置き換えられてしまうのだ。そのため、イエスは今、助け主が来れば、罪だけでなく義についても世を有罪とすると言われたのだ。独善が暴かれると、人々は再び "確信 "を覚える。自分の善は神からの永続的な賜物ではなく、自分自身に由来するものだと錯覚していたことに気づくのだ。イエスが、助け主は "世に義を確信させる "と言われたのは、このためである。
なぜなら、わたしは父のもとに行き、あなたがたはもうわたしを見ないからである」(ヨハネによる福音書16:10). 文字通りのレベルで、イエスは差し迫った十字架刑について語っている。その時、イエスは "御父のもとへ "行かれ、"もう見ることはできない"。より深いレベルでは、イエスが "御父のもとに行く "と言っているのは、神の真理が神の愛とひとつになり、ふたつがひとつになると言っているのだ。そして、イエスが「もうわたしを見ることはない」と言うのは、真理が愛と完全に結びついたとき、愛だけが見えるようになることを意味している。
これはまさに、私たちの霊的成長において起こることである。最初は、私たちは真理が教えることを自分自身に強いる。これは真理に導かれることである。しかし、真理の中にある善を見るとき、私たちに変化が訪れる。私たちは真理からではなく、善から正しいことを行うようになる。イエスが「わたしは父のもとに行く。この移行期がやってくると、私たちは真理からではなく、真理の中の善、つまり愛から行動するようになる。
これは私たちにとって素晴らしい移行の時であるが、霊的な危険も伴う。私たちがまだ愛からではなく、真理から行動している限り、私たちは自分の欠点を意識し、利己的な傾向を意識し、抵抗を意識する。そのため、正しいことをするよう自らに強制し続ける必要がある。しかし、私たちが愛から行動し始めると、神の助けなしに、簡単かつ自由に自分自身でそれを行っているように感じることがある。まるで自然にそうなっているかのように。
そうなると、私たちをこの転換点に導いた真理は、一時的に見えなくなってしまう。これは、すべての真理とすべての善は主のみに属するということを忘れたときに起こることである。この真理を見失うと、私たちは自分の行う善は自分自身から出たものだと誤信する。これは、神への信頼よりも自己への信頼、神への依存よりも自己充足、すべての義を主のみに帰するのではなく、独善につながる。 12
しかし、私たちが自分自身からは何一つ良いことはできず、良いことはすべて御父の愛に起源があることを悟る時が来る。ぶどうの木にとどまらなければならない枝のように、主だけが供給できる善と真理を受け取るためには、私たちも主にとどまらなければならない。私たちがぶどうの木から離れて存在できる、あるいは自分自身から何か良いことができると信じるのは、独善的な妄想である。肺が自分の力だけでは呼吸できないように、心臓が自分の力だけでは鼓動できないように、私たちは主から離れては真理を理解することも、愛を現すこともできないのだ。 13
助け主は、世に罪を宣告するために来られるだけでなく、人は自分の努力で善を行うことができる、あるいは神から離れて自分だけで自分を救うことができるという独善的な信念を世に宣告するためにも来られるのである。これが "義の確信 "である。 14
裁きを確信させられる
イエスはすでに、助け主が世に罪と義とを確信させると言われた。イエスは今、助け主が「この世の支配者が裁かれるのだから、裁きについて」世を確信させると言われた(ヨハネによる福音書16:11). この言葉を理解する一つの方法は、主が最初に来られた時の世界の状況を考えることである。当時は、利己主義、貪欲、権力欲が肥大化し、地獄が天国を侵略していた。人々の心の中では、悪が善を支配していた。真理に代わって偽りが支配していたのだ。要するに、自己愛とこの世の物質的なものへの愛が "支配 "していたのだ。これがイエスの言う "世の支配者 "である。
同時に、宗教は最低の状態にあった。恐怖が信仰に取って代わり、律法主義が愛に取って代わっていた。善良な人々は、自分たちを偽りから守ってくれる真理に頼るところがなかった。悪霊が人々の心だけでなく体も支配していたため、悪魔憑きが蔓延していた。下天と中天の天使たちでさえ、地獄の影響に襲われていた。そのため、一般的な裁きが行われなければならなかった。神は人間の姿で来て、地獄を征服し、天の秩序を回復し、真の信仰の再確立につながる真理を教えなければならなかった。これは当時もそうであったし、今日でもそうである。 15
この裁きを行うにあたり、神は人々が自分の中にある善と悪を、自分の中にある正直と不正を、自分の中にある善意と邪悪を分ける助けとなる真理を提供された。地獄に落とされる者も天国に引き上げられる者もいなかったが、選択の自由は再び回復した。人々は、地獄で惨めな苦しみを味わう道も、天国で喜びと平和に満ちた生活を送る道も、自由に選ぶことができた。イエス・キリストの教えによって、神の秩序が再び地上に訪れ、人々が霊的な自由の中で生きることが可能になったのだ。このようにして、世の支配者は裁かれたのである。 16
しかし、世の支配者についてのイエスの言葉を、もっと個人的なレベルで理解する方法もある。私たちもまた、自分の中にいる世の支配者に、神の居場所を奪われる傾向がある。この世の支配者が私たちを支配しているときは、いつでもこのようなことが起こりうる。そうなると、私たち自身の判断が神の真理の代わりになってしまう。
自分の判断が紛れもなく正しいと思い込んでそうする限り、私たちは善悪の知識の木から食べていることになる。こうして独善が先行し、他者を軽蔑し、非難する判断につながるのだ。そのような時、私たちは自分が「神のような者」であり、自分の判断が他人の判断より優れていると信じている。このようなことが自分の中で起こっていることに気づくとき、私たちはいつも "裁きの確信 "を得ているのだ。 17
実践編
独善的な判断をしてはならないのは事実だが、それでも私たちは正しい判断をしなければならない。イエスはこの福音書の中で、「正しい裁きをもってさばきなさい」(ヨハネによる福音書7:24). 例えば、返してくれないかもしれない人に道具を貸すかどうか、酒気を帯びている人の車に乗るかどうかを判断する必要がある。教師は生徒の昇進について判断する必要がある。そして法廷の裁判官は、人が無実か有罪かを判断する必要がある。このような判断を下したとしても、それは "決めつけ "ではない。判断は必要です。それがなければ社会は崩壊してしまう。そして、たとえ私たちが行為について判断を下し、その結果を強制しなければならないとしても、私たちは他人を良く思い、その行動を理解しようと努力し続けなければならない。実際的な応用として、悪意があると自動的に決めつけるような判断は避けること。その代わりに、他人を良く思い、その行動を理解するように努めなさい。人の意図を知っているのは主だけである。 18
イエスは「真理の霊」である
12.わたしは,あなたがたに言うべきことがまだたくさんある。
13.しかし,真理の霊が来ると,あなたがたをすべての真理に導くであろう。
14.それはわたしのものを受けて,あなたがたに告げ知らせるからである。
15.それはわたしのものを受けて,あなたがたに告げ知らせるからである。
イエスは弟子たちに伝えたいことがたくさんあるにもかかわらず、ほとんどの情報は弟子たちの理解をはるかに超えていることを知っておられる。それゆえ、イエスは弟子たちにこう言われる。ヨハネによる福音書16:12). しかし、真理の霊が来れば、あなたがたをすべての真理に導いてくれる」(ヨハネによる福音書16:13). 真理の霊とは、イエス御自身のことであり、彼らのところに来て、御言葉に対する理解を開いてくださるのである。
イエスは、真理の霊が来ると、「自分の権威で語るのではなく、聞いたことは何でも話す。ヨハネによる福音書16:13). これらの言葉は、啓示の本質について言及している。すべての啓示は神の愛に起源を持つ。その愛は人間の理解を限りなく超えているが、イエスが語る言葉や、イエスが与える例示を通して、人間の理解に適合する。イエスが "聞く "と言われるのは、真理が由来する神の愛を知覚するイエスの能力のことである。この愛から、イエスは弟子たちに、そして私たち一人ひとりに語りかけ、神の愛という無限の言語を、理解し人生に適用できる言葉とイメージに翻訳されるのである。 19
そうはいっても、イエスの言うことの多くは、特にこの別れのメッセージでは、理解するのが難しい。特に弟子たちにとってはそうである。みことばは無限の知恵を含んでいるので、弟子たちがすべてを理解することができないのは理解できる。真理の霊が彼らに臨むとき、それはイエスを賛美する。それは、イエスが本当は誰なのか、御父がイエスのうちにどのようなかたちでおられるのか、イエスが御父のうちにどのようなかたちでおられるのか、イエスと御父がどのようなかたちでひとつであるのかを明らかにするのです。イエスが言うように、真理の霊が来たとき、"彼はわたしをあがめる"。さらに、「わたしのものを取り、あなたがたに告げ知らせる」(ヨハネによる福音書16:14). 20
真理の霊は、イエスの内にある完全な神性を明らかにする。父、子、聖霊」の三位一体は、別々の人格の三位一体ではなく、むしろ一つの神の三つの側面であることを教えるだろう。父」はイエスの内にある神聖な愛である。子」はイエスが語る神の真理。そして "聖霊 "は、その真理を受けるすべての人を祝福し、啓発し、鼓舞するために出て行くその力と影響力である。言い換えれば、イエスと父は別個の存在ではない。彼らは一つなのだ。イエスが言われるように、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」(ヨハネによる福音書16:15). 21
最も一般的な意味では、聖霊とは神から生じるすべてのものである。これには、善なるもの、真実なるもの、聖なるものすべてが含まれる。とはいえ、聖霊が自分たちとともにおられることを、人々がどのように確信できるのかについては、まだ重要な疑問が残っている。必要なのは、聖霊がまず神の教えを思い起こさせ、その教えに従って生きるように促すことによって、罪を確信させ、義を確信させ、裁きを確信させることを覚えておくことだけである。
人々がこれを行う限りにおいて、イエスの聖霊は彼らの人生において、生き、導き、啓発し、確信させる存在となる。この点で、イエスは私たちとともにおられる聖霊であると言えます。イエスは真理の霊として来られ、有罪判決を下すだけでなく、悟らせ、暴くだけでなく、教え、戒め、叱責するだけでなく、慰め、奮い立たせるのである22
悲しみは喜びに変わる
16.あなたがたは,少しもわたしを見ず,また少しもわたしを見ない。
17.あなたがたは,わたしを見ず,またあなたがたはわたしを見るであろう。
18.それでかれらは言った。わたしたちは,かれの御言葉を知らないのです。
19.あなたがたは,わたしが『少し(の間)わたしを見てはならない』と言ったこと,また『少し(の間)わたしを見てはならない』と言ったことについて,互いに尋ね合っているのか。
20.あなたがたは泣き,嘆くが,世は喜び,あなたがたは悲しむが,あなたがたの悲しみは喜びに変えられる。
21.しかし、幼な子が生まれると、人は世に生まれる喜びのために、もうその苦しみを思い出さない。
22.しかし,わたしはあなたがたに再び会い,あなたがたの心は喜び,あなたがたの喜びはだれにも奪われないであろう。
23.その日,あなたがたはわたしに何も求めないであろう。あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは,何でも与えられる。
24.あなたがたは、わたしの名によって、これまで何も求めなかった。
弟子たちは、世の光の前に立っているにもかかわらず、まだ暗闇の中にいる。彼らは、イエスがなぜ自分たちのもとを去らなければならないのか、「父のもとに行く」とはどういうことなのか、「しばらくしたら戻って来る」と言われた意味がわからない。イエスの言葉を借りれば、「少しの間、あなたがたはわたしを見ない。ヨハネによる福音書16:16).
弟子たちはイエスの言葉に混乱し、口々に言った。わたしが父のもとに行くからである』。(ヨハネによる福音書16:17). イエスは、ご自分が弟子たちの前から去るとき、弟子たちが悲しむことを知っておられる。それにもかかわらず、イエスは弟子たちに、心配することはないと前もって告げられる。イエスが、数時間後に迫っているご自身の苦しみではなく、弟子たちが受けるであろう苦しみに焦点を当てていることは注目に値する。
イエスはまた、自分たちがイエスを殺したと信じて、イエスの死を喜ぶ人々がいることを知っておられる。しかし、イエスは弟子たちにそのことを心配するなと言われる。弟子たちは悲しむだろうが、その悲しみは永続するものではないと。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜び、あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。ヨハネによる福音書16:20).
イエスは次に、弟子たちが経験することになる悲しみを、出産する女性の悲しみに例えている。産婦は、陣痛のとき、そのときが来たという悲しみを抱くが、子を産むや否や、人間がこの世に生まれたという喜びのために、もはやその苦しみを思い出すことはない」(ヨハネによる福音書16:21).
この例えは明快だ。イエスはすでに弟子たちに、ご自分の「時が来た」(ヨハネによる福音書12:23). つまり、十字架につけられる時が近づいているのだ。その時が苦悩の時であることを知っておられる。陣痛に苦しむ女性のように、弟子たちも苦しい時を過ごすことになる。しかし、出産には陣痛が必要である。同様に、弟子たちも信仰が完成するまでには、さらなる試練を受けることになる。しかし、イエスを信じて突き進むなら、その結果は輝かしいものとなる。彼らの悲しみは喜びに変わる。
女性の場合、子供が生まれる。弟子たちにとって、そして再生のプロセスを経るすべての人々にとって、新しい喜びの感覚とともに、彼らの内に新しい意志が生まれる。このことは、イエスが弟子たちに言われた慰めの言葉にすべて含まれている。ヨハネによる福音書16:22).
御子には何も求めない
イエスはさらに予言される。その日、あなたがたはわたしに何も求めない」(ヨハネによる福音書16:23). 御子に何も求めないということは、もはや真理に頼ることはないということである。弟子たちの霊的成長は、必然的に真理を学ぶことから始めなければならないが、弟子たちはその過程で次のステップに進むよう求められる。それは真理に従って生きることである。そうすることで、弟子たちは真理の源である愛にアクセスできるようになるのだ。これが、イエスが「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたに与えてくださる」(ヨハネによる福音書16:23).
イエスは、弟子たちの霊的進化における次のステップを説明するために、比喩的な表現を使っている。弟子たちは真理を学ぶことから霊的な旅を始めるが、次第にその真理の中にある善を、特にそれに従って生活する中で見たり経験したりするようになる。そうすることで、逆転が起こる。真理が第一ではなく、善が第一になるのだ。イエスが、その時、彼らは "父 "のもとに直接行くのだと語ったのは、このことを意味している。言い換えれば、彼らは愛から行動し始めるのだ。
弟子たちにとって、父のもとに直接行くということは、愛と善が最初に来るということだ。そして、その愛と善から、より深い真理を経験することになる。その新しい、より深い真理に従って生きることで、彼らはさらに深い愛と善の状態を経験し、それが永遠に続くのである。ひとたび真理から善へ、善から真理への旅が始まれば、彼らが求めるものはすべて御父のみこころに沿ったものとなる。それゆえ、イエスは彼らにこう言うことができる。"わたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたに与えてくださる"。
この逆転は簡単には起こらない。その前に、古い性質を捨て去り、新しい性質を身につけなければならない長い闘いがある。古い性質が弱められ、打ち砕かれる間、嘆きと痛みの期間が必然的に生じる。身体的な中毒であれ、受け継いだ悪への傾きであれ、古い習慣を手放すことは大きな葛藤を伴う。しかし、それこそが、私たちの中に新しい自由とともに新しい意志が生まれる唯一の方法なのだ。この新しい自由の中で、私たちはイエスに従う。それが正しいことだから(これは善に対する真理である)ではなく、そうすることが好きだから(これは真理に対する善である)。 23
弟子たちがこのように御父のもとに直接行き、神の御言葉の真理に導かれ、導かれることを許し、愛からそうしている限り、弟子たちは求めるものをすべて受け取ることができる。だからイエスは言われるのだ。これまで、彼らの祈りはイエスの名によってではなかった。つまり、謙遜に祈ることも、神のみこころにかなったことを祈ることもしていなかったのだ。つまり、イエスが与えてくださった真理を通してだけでなく、へりくだった愛に満ちた心から祈るのである。そうすればするほど、彼らの祈りは素晴らしい形で答えられる。イエスが言われるように、「求めよ、さらば与えられん。ヨハネによる福音書16:24).
実践編
聖典の導きとは別に、自分の "内なる声 "に頼っていると、人は大きなトラブルに巻き込まれる可能性がある。だからこそ、神は "神の言葉 "と呼ばれる啓示を与えたのだ。それでも、自分自身の考えに流されたり、文脈を無視して物事を捉えたり、自分自身の意図のレンズを通して聖句を読んだり、自分の主張を証明しようと躍起になるあまり、聖句に自分の言いたいことを言わせたりすることはあり得る。このようなことを防ぐために、主は、私たちをすべての真理へと導く真理の霊として再び来られると約束しておられる。真理の霊が私たちのところに来たときにそれを正しく受け取るためには、私たちは、主の真理を学び、人生の用途に適用したいという謙虚な願い以外のあらゆる意図から自由でなければならない。つまり、主の真理を自分の人生にどのように適用できるかを見るために、主があなたの目を開いてくださることである。それは、ダビデが主に向かって祈ったときのことである。詩編119:18). 24
比喩的に語る
25.わたしは,あなたがたにたとえで話してきた。しかし,わたしがもう,たとえでは話さず,父について公然とあなたがたに告げる時が来るのである。
26.わたしは,あなたがたのために父に懇願するとは言わない;
27.あなたがたはわたしを愛し,わたしが神から出たことを信じたからである。
28.またわたしは世を去り、父のもとに行く。
29.弟子たちはかれに言った、「御覧なさい。
30.わたしたちは,あなたが凡てのことを知っておられることを知っている。わたしたちは,あなたが神から来られたことを信じる。
31.イエスは彼らに答えられた。
32.わたしは一人ではない。父がわたしと共におられるからである。
33.わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしのうちに平安を得るためである。
しかし、わたしは世に打ち勝ったのだから、確信しなさい。イエスは弟子たちを慰め、戒め、警告し、期待すべきことを告げられた。また、聖霊が彼らと共におられることも約束された。
イエスが弟子たちに語られたことの多くは比喩的な表現であった。父」や「子」といった、弟子たちにはまだ理解できないような言葉を用いている。イエスが「父」によって、ご自分の内にある神の愛を比喩的に語っておられることを、どうして彼らが知ることができただろうか。御自身を「子」と呼ぶとき、御自身が彼らに教えておられる神の知恵について比喩的に語っておられることを、どうして彼らが知ることができただろうか。また、御自身が「聖霊」について語られるとき、御自身から発せられる、愛で彼らの心を温め、真理で彼らの心を奮い立たせる神の影響について比喩的に語られていることを、どうして彼らは知ることができただろうか。弟子たちはこれらのことに薄々気づいていたかもしれないが、最も確かなことは、彼らにとってまだ完全に明らかになったわけではなかったということだ。 25
それゆえ、イエスは言われる、「これらのことを、わたしは比喩的な言葉であなたがたに話した。ヨハネによる福音書16:25). その日が来れば、人々はイエスと御父が本当に一つであることを理解できるようになる。御子の執り成しを通して御父の憐れみを祈る必要はなくなる。その代わり、人々は神の受肉において神が与えてくださった真理を通して、神の無限の愛に近づくことができるようになる。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神から出たことを信じたからである。ヨハネによる福音書16:26-27).
この箇所でイエスは、"あなたがたのために父に祈ろうとは言わない "と言っている。言い換えれば、私たちが祈っているときに、イエスに御父の前で私たちのために介入していただく理由はない。御父は私たちに腹を立てておられるのではない。それどころか、御父は私たちを愛しておられ、私たちが御父の愛の祝福を受けるために御父のもとに直接来ることを望んでおられる。そして、私たちの祈りが、イエス・キリストとして受肉された御自身を通して私たちに与えられた知恵に導かれているとき、私たちは御自分のもとに直接来るのです。
そしてイエスは言われる、「わたしは父から出て世に来た。ヨハネによる福音書16:28). イエスはご自身の使命のすべてを、わずかな言葉で要約している:イエスは肉となった御言葉として御父から現れ、御父のもとに帰られる。イエスは、肉となった御言葉として御父から現れ、御父のもとに帰られる。そのおかげで、人々は真理を明確に理解し、地獄の影響から永遠に守られ、愛に満ちた神の姿を目にすることができる。
わたしは父から世に出て、世に来た。それで、弟子たちはイエスに言った、「今、あなたは比喩的な言葉を使わず、わかりやすく話しておられます」(ヨハネによる福音書16:29). 彼らは今、イエスの権威は疑う余地のないものだと確信している。今、私たちは、あなたがすべてのことを知っておられることを確信しています。ヨハネによる福音書16:30).
たとえ文字通りの意味であったとしても、彼らはようやく理解し始めたようだ。彼らが言うように、「私たちは、あなたが神から現れたことを信じます」(ヨハネによる福音書16:30). 彼らはイエスが「父」「子」「聖霊」という言葉で何を意味しているのかはっきりとは理解できないかもしれないが、イエスの神性を認めている。そこから真の信仰が始まるのである。 26
"Do you now believe?"
弟子たちの大胆な信仰宣言に対して、イエスは彼らに質問する。"あなたがたは今、信じるか?"と。(ヨハネによる福音書16:31). 弟子たちはイエスの神性を信じ、イエスは「すべてのこと」を知っており、イエスの教えは疑う余地のないものだと主張したばかりだからだ。それなのに、なぜイエスは弟子たちに "あなたがたは信じるのか "と尋ねたのだろうか。
イエスの質問は、ペテロがイエスのためならどこにでもついて行き、命を捨てることさえ厭わないと宣言したときの似たような状況を思い起こさせる。それに対してイエスは言われた。(ヨハネによる福音書13:38). そしてイエスはペテロに、ペテロがイエスを三度否定するまで鶏は鳴かないと言われた。同じように、弟子たちは今、イエスはすべてのことを知っておられ、イエスへの信仰は確かだと宣言しているにもかかわらず、イエスは "あなたがたは今、信じるか?"という単純な質問で、彼らの信仰の固さを問うている。
なぜイエスはこのように言われるのだろうか。ひとつの答えは、イエスが弟子たちに自分たちの確信の深さを再確認してほしいと思っておられるからだ。弟子たちは確信し、献身し、完全に献身しているように見える。しかしイエスは、初心者の未熟な信仰と、誘惑の炎をくぐり抜けた経験豊かな信仰には違いがあることを知っておられる。彼らは誠実に信仰を表明しているが、それはまだ揺るぎないものではないことを知っておられる。信仰は本物かもしれないが、まだ弱い。だからイエスは、"今、信じるか?"と尋ねるとき、"今 "という言葉を付け加えたのだ。それはあたかも、「はい、今この瞬間、あなたの信じていることは確かです。しかし、これから試練を経験するとき、あなたは信じ続けるだろうか?" と言っているかのようだ。
それは私たち一人ひとりにも似ている。山頂にいるとき、神を信じると宣言するのは比較的簡単だ。神はすべてをご存知であり、神の御言葉は私たちの人生における最高の権威であり、どこへでも喜んで従うと宣言できる。こうした最高の信仰状態は重要だが、信仰の始まりに過ぎない。神への真の信仰、神への本物の信仰は、困難な時、特に私たちが神の教えへの信頼を失い、神への信仰を放棄しそうになる時に、神の教えに忠実であり続けた結果としてのみ生まれる。
このことは、次の節で明らかになる。イエスは言われる、「あなたがたは、それぞれ自分のところへ散って行き、わたしをひとりぼっちにする時が、本当に来る、そう、今、来たのだ」(ヨハネによる福音書16:32). イエスはここで、羊飼いが打ち倒され、「羊は散らされる」と預言したゼカリヤの言葉を響かせているのだ(ゼカリヤ書13:7).
彼らは散らされる、とイエスは言われる。文字通りには、イエスはご自分が十字架につけられるとき、つまり羊飼いが打ち倒されるとき、それぞれが自分の家に、自分の仲間の安全なところに帰ることを予言しているのだ。さらに深く、イエスは、私たちが最も厳しい信仰の試練のときに経験するプロセスについて語っているのだ。このような時こそ、私たちが以前の状態に戻り、再生していない自分の考え方や感じ方に戻ってしまいそうになる時なのだ。このような時、私たちは皆、"自分のもの "に戻ろうとする誘惑に駆られる。ヘブライ語の聖句にあるように、「私たちはみな羊のように道を踏み外した。私たちはみな、自分の道に立ち返った」(イザヤ書53:6). 27
しかし、神は私たち一人ひとりに、自分勝手な意志、思考、行動のパターンを捨て去るよう、絶えず呼びかけておられる。私たちの思考、意志、行動がもはや私たち自身のものでなく、むしろ私たちのうちにある神の意志となるような新しい土地、神が私たちに示してくださる土地に、神に従って行くよう求めておられるのだ。これが私たちの新しい意志だ。神の道が私たちの道となり、神の意志が私たちの意志となるたびに、私たちの中に生じる天国のような自己意識なのだ。 28
"Be of good cheer..."
イエスは今、別れの講話の終わりに近づいている。イエスは厳粛な警告で締めくくるのではなく、慰めの言葉で締めくくられた。父は私と共におられるからである」(ヨハネによる福音書16:32). それは、私たちの最も過酷な試練の中にあっても、私たちの信念が揺らぎ、完全に見捨てられ、孤独を感じるときでさえも、「父」と呼ばれる神の愛は、私たちの命の源として常に存在し、根が枝を支えるように私たちを支えていることを思い出させてくれる。この愛は常に存在し、いつでも利用できる。イエスが "父は私と共におられる "と言われるのは、この愛のことなのだ。霊的な意味で、イエスは神の愛が神の真理といつも共にあると言っているのだ。それらは一つであるため、切り離すことはできない。
これは私たち一人ひとりの人生にも当てはまる。私たちが知っている真理と、それに従って生きたいという願望を結びつけること以上に高い目標はありません。同時に、私たちは「御父は私とともにおられる」と言えるようにならなければならない。つまり、私たちが行動する真理が御父の愛に満たされていることを確信しなければならない。そうすれば、どんなに困難な状況であっても、どんなに激しい内なる嵐であっても、私たちは平安を得ることができる。
これが、イエスが告別の辞の結びの言葉を述べるときに表明した中心的な真理である。イエスの言葉は明確で、勝利に満ち、平和の約束に満ちている。すべての教えの背後にある理由に戻って、イエスは言われる。しかし、わたしは世に打ち勝ったのだから、元気を出しなさい」(ヨハネによる福音書16:33).
A practical application
「元気を出しなさい」という言葉には、イエスがこの世に打ち勝ったのだから、私たちにもできるという神聖な保証が含まれている。これは、私たちの毎日が楽だという意味ではない。実際、イエスは弟子たちに元気を出すように勧める直前に、「この世では苦難がある」と言われた。それでも、もし私たちが主の御言葉に深く根ざし、その真理から戦い、イエスだけに信頼しているなら、誘惑の時に打ち勝つだけでなく、嵐の中でも平安を得ることができるだろう。実践的な応用として、「元気を出して」という言葉を、イエスがあなたの心に生じるかもしれないあらゆる地獄のような考えや感情をすでに服従させておられることを思い出させる言葉として使ってください。これは、イエスが克服された "世界 "であり、あなたも克服できる思考と感情の内なる世界なのだ。それゆえ、内なる葛藤が生じたときには、自分の力で戦うかのように戦うが、すべての力はただ主からのみであることを知り、認めなさい。そのためには、"私は世に打ち勝った "と真に言うことのできる唯一の方であるイエスに全幅の信頼を置く必要がある。 29
फुटनोट:
1. 真のキリスト教501: “なぜ奇跡は昔のように起こらなくなったのか、と現代では問われる。もし奇跡が起これば、誰もが心の底から神を認めるだろう、という考えがある。奇跡が今日、かつてのように起こらない理由は、奇跡が強制的なものであり、霊的な事柄における個人の自由な選択を奪ってしまうからだ。奇跡は、人々を霊的というよりも地上的な存在にしてしまう。主が来られた時以来、キリスト教世界のすべての人は霊的になる能力を持っている。そして、彼らは御言葉を通して主からのみ霊的になるのです。"
2. アルカナ・コエレスティア 9311:4: “神の子の声を聞く』とは、信仰の真理を教えられ、それに従うことを意味する。生きる』とは、これらの真理によって霊的な生命を与えられることを意味する」。
3. アルカナ・コエレスティア10490:7: “主の弟子であるということは、主によって導かれることであり、自分自身によって導かれることではない。参照 アルカナコエレスティア 9942:12: “十二弟子によって、主からの財と真理にあるすべての者が表され、抽象的な意味では、主からの愛の財と信仰の真理がすべて表された。"参照 アルカナ・コエレスティア 4247:2: 善は絶えず真理に流れ込み、真理は善を受け入れる。神の善を入れることができる唯一の器は、真理である。"
4. 啓示による黙示録解説613: “福音書では、主が "父 "に言及されるときはいつも、神の愛の神的善に言及され、主が "子 "に言及されるときはいつも、神の知恵の神的真理に言及される。主がその人間性を輝かせたとき、この二つは、魂が肉体を、肉体が魂を持つように結びついた。"
5. アルカナコエレスティア 9163:2: “つまずく」とは、悪を犯すように仕向けられること、つまり真理から虚偽に陥ることを意味する」。参照 アルカナコエレスティア1510:1-2: “悪霊の説得力は、それが他人に作用するとき、真理を虚偽に見せかけるようなものである。また、あらゆる種類の支持的な考えをかき立て、虚偽を真理として、悪を善として受け入れるように人を説得する。このことは、主から来る真理を信じなければ、人がいかに簡単に偽りや悪を信じ込んでしまうかを示している。"
6. 真のキリスト教123[3]: “地獄の多くの者は......いかにして天国から来た者たちを攻撃し、待ち伏せし、包囲し、交戦するかを実践することに専念している」。参照 天界の秘義840: “誘惑が続く限り、人々は主が不在だと思い込む。悪霊が人々を絶望の淵に追いやるからだ。そのため、人々は神の存在をまったく信じられなくなるほどの絶望感に襲われる。しかし、そのような時こそ、主は人々が信じる以上に存在しておられるのである。"参照 天界の秘義2706: “主は確かにすべての人とともにおられる。それ以外に命の源はないからであり、主はすべての人の人生の最も微細な部分、最悪の人々や地獄の人々でさえも支配しておられる。しかし、主は、人々が主の命をどのように受け取るかに応じて、さまざまな方法で支配される。主のいのち(それは主の善と真理の愛である)を間違った仕方で受け取り、悪と偽りの愛に変質させる人々には、主はまだ存在しておられる......しかし、彼らに対する主の臨在は不在と呼ばれる。"悪が善から遠ざかり、偽りが真理から遠ざかるのとまったく同じ程度である。
7. 真のキリスト教126: “誘惑の中で、人は独りぼっちになったように見えるが、神は最も深いレベルで最も密接に存在し、密かに支えを与えているのだから。"
8. 主の教義51: “聖霊とは、神の知恵、ひいては神の真理に関する主を特に意味するのであるから、聖霊が啓示し、教え、奮い立たせると言われる理由は明らかである」。
9. アルカナ・コエレスティア 10645:2: “多くの人は、教会の教義にあることを信じるときには信仰によって主を礼拝し、主を愛するときには愛によって礼拝すると思っている。しかし、主を礼拝するのは、ただ信じることでも、ただ愛することでもなく、主の戒めに従って生きることである。"参照 黙示録の説明 802:7: “同様に、神がいると信じることと、神を信じることは別のことである。神を信じるということは、信仰を持つことと、(神の意志を)行うことの両方を含むのです」。
10. 最後の審判について(遺作)205: “良心とは、神の戒めに反して行動したこと、またそれに反する考えを抱いてしまったことを精神的に悲しむことである。このことから良心の嘆きが生じる。これは、人が自分自身を天罰の状態にあると見るときである。"参照 天界の秘義1077: “良心は信仰の真理によって形成されるものであり、人々が聞き、認め、信じたことが、彼らの中の良心を作るからである。その後、これに反する行為をすることは、良心に反する行為であることは、誰にでも十分に明らかであろう。"だから、人々が聞き、認め、信じたのが信仰の真理でなければ、真の良心を持つことはありえない。
11. 啓示された黙示録902: “霊的な命は、みことばにある戒めに従った生活によってのみ獲得される。すなわち、姦淫してはならない、盗んではならない、殺してはならない、偽証してはならない、他人の財物を貪ってはならない、である。これらの戒めを行うとき、人々の行いは善となり、その生活は霊的なものとなるからである。"人は悪を避け、悪を憎む限りにおいて、善なるものを志し、愛するからである。参照 黙示録の説明 837:4-5: “人々は、まず十誡から、またその後にいたるところの御言葉から、どのような悪が罪であるかを知らなければならない。そして、それらは神に対する罪であり、これらの罪は人々を天国から遠ざけ、引き離し、地獄に堕とし、宣告するものであると考えなければならない。従って、改心の第一は、罪を慎み、罪を避け、ついには罪を憎むことである。しかし、罪を慎み、罪を避け、罪を嫌うためには、主に助けを求めて祈らなければならない。なぜなら、それらはみことばに背き、主に背き、天に背くものであり、それ自体が地獄のものだからである」。(マタイによる福音書6:24)
12. アルカナコエレスティア4007:4: “天国へ行く者は皆、2つのものを捨てる。自信過剰の自己満足と、功名心、あるいは独善である。これらを、主から与えられた天上の自己意識と、主の功徳や義とに置き換えるのである。これらを身につければつけるほど、彼らは天に深く入っていく。"参照 新エルサレムと天界の教義155: “すべての善と真理は主から出たものであり、人から出たものはなく、人から出た善は本物の善ではないから、功徳は人間にはなく、主にのみ属するということになる。主がご自身の力で人類を救われ、また主から善を行う者を救い続けておられるのは、主の功徳である。だからこそ、主の功徳と義が帰せられる者は、みことばの中で『義』と呼ばれ、自分の義と自分の功徳が帰せられる者は、『不義』と呼ばれるのである」。
13. 主の教義51[3]: “地上の人間と同じように、天使も呼吸し、心臓を鼓動させている。肺の呼吸は、主から神の知恵を受け取ることと一致し、心臓の鼓動は、主から神の愛を受け取ることと一致する。"
14. アルカナ・コエレスティア 1661:4-5: “ 人々が、善と真理は自分自身に由来し、抵抗する力は自分自身のものであると想像するとき、悪や偽りと戦うための財や真理は、それがどんなにそう見えるとしても、本当の財や真理ではない。参照 アルカナ・コエレスティア9715:2: “しかし、自分自身から出たものは何もなく、すべては主から出たものであることを認めるとき、主の功徳と義が人々に与えられる。このことから、主だけが人々を再生させるのである。人々を再生させるとは、彼らから地獄を、ひいては地獄に由来する悪と偽りを追い払い、その代わりに天国を植え付けることである。人々が誘惑である戦いによって再生されるように、主も誘惑である戦いによって栄光を与えられた。その結果、主ご自身の力による主の人間性の栄光化は、功徳であり義である。こうして人々は救われたのであり、それによってすべての地獄は永遠に主によって服従させられるのである。"
15. 真のキリスト教121: “主が最初に来られた時、地獄は天と地獄の中間にある霊の世界全体を満たすほどに増え、最下層と呼ばれる天を混乱に陥れただけでなく、中層天をも攻撃した。
16. 天界と地獄548: “主は天使たちを通して、また天からの流入を通して、すべての霊魂を御自身の方に導いておられるが、悪にのめり込んでいる霊魂たちは激しく抵抗し、事実上、主から離れていく。悪への愛に引き寄せられ、まるで縄につながれているかのように、彼らはついていこうとする。引き寄せられ、従いたがるがゆえに、彼らは自由に地獄に身を投じる。"参照 アルカナコエレスティア2235:6: “世に正しさを確信させるとは、善に反対するものすべてに対して確信させることだ......。裁きについて世を有罪にするとは、真理に関するあらゆることについて世を有罪にすることである......。世の支配者は裁かれる "という言葉は、悪がもはや害をなすことのできない自らの地獄に投げ落とされたことを意味する。"参照 聖書の教義85: “さばき』と『義』という言葉が頻繁に出てくるのは、『さばき』が真理を、『義』が善を前提としているからである。『さばきと義を行う』とは、真理と善から行動することを意味する。さばき'が真理を、'義'が善を前提としているのは、霊の王国における主の政治が'さばき'と呼ばれ、天の王国では'義'と呼ばれるからである」。
17. 真のキリスト教565: “古代人は、感覚的な印象だけに基づいて議論する人々を、善悪の知識の木の蛇と呼んでいた。感覚的印象は最も低い優先順位を持つべきであり、最も高い優先順位を持つべきものではない......。私たちの思考が感覚的印象のレベルを超えない限り、私たちはほとんど知恵を持たない。"参照 アルカナコエレスティア5758:2: “主から来るものを自分の真理、自分の善と主張するのは独善だ......。このように考える人は、隣人のために行う具体的な行いのすべてに自分自身を見る。たとえこの軽蔑を口に出して表さないとしても、彼らの心の中には存在しているのである。"参照 アルカナ・コエレスティア 1949:2: “善のない真理は、すぐに欠点を見つけ、容赦せず、すべてに反対し、すべての人を誤りとみなす」。
18. 天界の秘義1088: “慈愛に満ちた人たちは、他の人たちのことを何も考えず、良いことしか言わない。彼らは自分のためでも、誰かの好意を得たいからでもなく、慈愛によって彼らの内に働いておられる主からそうしているのである。"参照 天界の秘義1079: “慈愛に満ちた人たちは、他人の悪にほとんど気づかない。それどころか、善と真に気づき、悪と偽りに良い解釈をする。このような性質は、天使たちが主から授かったものである。"参照 結婚愛523: “もし公的な法廷がなく、人々が他人を裁くことが許されなかったら、社会はどうなるだろうか?しかし、内なる心や魂がどのようなものかを判断すること、つまり人の霊的な状態や死後の運命を判断することは、誰にも許されていない。"それは、主だけが知っておられることだからである。
19. アルカナコエレスティア 8705:2: “御言葉の文字の感覚は、一般の人々が内部の真理に触れることができるように、一般の人々の把握力に適合している。"参照 アルカナ・コエレスティア 8920:2: “みことばが天を下るとき、それは天にいる者、地にいる者、すべての者に適応する道である"参照 天界の秘義10322: “神からもたらされたものは、天を経由して人々に降りてくる。このため、天上では天使たちの知恵に、地上では地上の人々の理解力に適合している。それゆえ、みことばは、天使にとっては内的あるいは霊的な意味を含み、地上の人々にとっては外的あるいは自然的な意味を含んでいる。"
20. 天界の秘義6788: “聖霊は、主の神聖な人間性からの聖なる発露である。主が『父がわたしの名によって遣わす者』とも『わたしが父からあなたがたに遣わす者』とも『わたしのものから受けて、あなたがたに告げ知らせる。また、パラクリートが『真理の霊』と呼ばれていることから、『聖なる』という言葉が真理に関して用いられていることも明らかです」。以下も参照のこと。 アルカナ・コエレスティア 10738:2: “主は真理の霊を "パラクリート "と呼び、主から出る聖霊とも呼んでいる。聖霊はそれ自身からではなく、主[イエス・キリスト]から語られる。
21. アルカナコエレスティア6993:2: “三位一体全体、すなわち父、子、聖霊は主において完全である。それゆえ、神はひとりであって、三人ではない......。みことばの中で『父、子、聖霊』について言及したのは、人々が主を認めるためであり、また主のうちにある神性を認めるためである。人々は、今日もそうであるように、厚い闇の中にいたからである。そうでなければ、彼らは主の人間における神性を認めなかっただろう。彼らにとって、この考えはまったく理解できないものであり、あらゆる信念を超えたものであっただろう。そしてさらに、三位一体が存在することは真理であるが、それは一つ、すなわち主の中に存在することであり、キリスト教会においても、三位一体が主の中に完全に宿っていることが認められている。さらに、主は父と一体であると公然と教えられた(ヨハネによる福音書14:9-12); 聖霊によって語られる聖なるものは、聖霊のものではなく、主のものである。"
. 天界の秘義9264: “聖霊は神の真理であり善である。"聖霊は主から出る聖なるものだからである。参照 真のキリスト教139[1]: “聖霊は神の真理であり、また、三位一体である唯一の神から、そして救い主である主なる神から生じる神の力と活動である。"参照 真のキリスト教139[4]: “主が慰め主や聖霊について語られたとき、主はご自身のことを言われたのです」。参照 天界の秘義8127: “主がこの世におられたとき、主は神の真理であった。しかしその後、栄光をお受けになったとき、人間に関しても、神の善となられた。そして、そこから神の真理が生まれ、それが "真理の霊 "すなわち "聖霊 "なのです」。
23. アルカナ・コエレスティア 5773:2: “喪に服すことに関しては......再生されつつある人々には、逆転が起こることを認識すべきである。つまり、最初に真理によって善に導かれ、その後に善から真理に導かれる。この逆転が起こる間、つまり状態が変化し、以前とは逆の状態になる間、嘆きが起こる。なぜなら、彼らは誘惑にさらされ、その誘惑によって、本来自分のものであったものが弱められ、壊され、善が導入されるからである。その善とともに新しい意志が導入され、それとともに新しい自由が導入される。"
24. 聖書の教義57: “悟りは、真理が真理であるがゆえに真理を愛し、真理が主の内にあり、主がその内にあるがゆえに、真理を人生の用途に適用する者に与えられる。主はご自身の神聖な真理であり、それが神聖な真理であるがゆえに愛され、それが用途に適用されるときに愛されるとき、主は人々とともにその中におられるのである。"
25. アルカナ・コエレスティア 2329:4: “主への愛と隣人への慈愛に満ちた者たちは、三位一体を知っており、それを認めている。それでもなお、彼らは主(イエス・キリスト)の前にへりくだり、主(イエス・キリスト)だけを慕う。それは、「父」と呼ばれる神ご自身には、御子を通してでなければ近づくことができないこと、また、聖霊に由来する聖なるものはすべて主(イエス・キリスト)から生じることを知っているからである。そして、聖霊に由来する聖なるものはすべて、彼[イエス・キリスト]から生じるのである。"このような考えに立つとき、彼らは、彼[イエス・キリスト]を通して、また彼から万物が生じる、このように一つである彼[イエス・キリスト]以外を崇拝することはない。
26. 真のキリスト教342:1-2 “イエスが神の子であることを認めることは、主がこの世に来られたときに啓示され、告げ知らされた信仰の最初の原則である......。主は、この岩の上に、すなわち、主が神の子であるという真理と告白の上に、ご自分の教会を建てると言われた。"岩 "は真理を意味する。参照 真のキリスト教379: “信仰を開始し、信仰を形成するすべての真理の中で、主が神の子であると信じることが第一である」。
27. アルカナコエレスティア6657:2: “誘惑は、人々が自らの悪に身を任せるときに起こる。
28. アルカナコエレスティア 8179:2: “人々は誘惑の只中にあるとき、たいてい手を緩めて祈りだけに頼り、その祈りを熱心に捧げるが、そのような祈り(努力のない祈り)には何の成果もなく、地獄がもたらす虚偽や悪と戦うべきであることを知らない。信仰の真理はその戦いのための手段であり、善の形と偽りや悪に対抗する真理を強めるので助けとなる。さらに、誘惑によってもたらされる戦いにおいて、人々は自分の力でそうしているかのように戦うべきであるが、主の力によってそうしていることを認め、信じるべきである......。そうすることで、新しい自己の感覚を得ることができる。これは天のプロプリウムと呼ばれるもので、新しい意志である。"
29. 天界の秘義10828: “そうでなければ永遠の死で滅びていたであろう人類を救うために、主はこの世に来られた。そして、この世に来た者、この世から出て行く者すべてにはびこる地獄を服従させることによって、人類を救われた。というのも、そうすることで、地獄を永遠に服従させることができるからである。地獄に服従させ、同時に人間である御自身を栄光あるものとすることは、人間である御自身に加えられた誘惑と、絶え間ない勝利によって成し遂げられた。十字架上の受難は最後の誘惑であり、完全な勝利であった。主が地獄を征服されたことは、主ご自身が次のように語っておられる。元気を出しなさい、わたしは世に打ち勝った』(ヨハネによる福音書16:33).”