天界の秘義 #5270

By Emanuel Swedenborg

Studere hoc loco

  
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5270. 「七年の飢饉です」とは、外見上、真理が欠落し、喪失していくことを指します。「飢饉」とは、諸認識が欠落することです(1460,3364節)。その結果、真理の喪失になります。

「やせ細った雌ウシが、七頭の肥えた雌ウシを食いつくした。腹に入っても、腹に入った様子は認められなかった」、あるいはまた「やせ衰えた穂が七つの良い穂を飲み込んだ」とは、偽りによって、諸真理が放逐され、その痕跡さえ見えなくなったことを意味します(本章第4、7、20、21、24節;5206,5207,5217節参照)。

内部と外部双方の自然的なものの中で、当初は真理が増し加わったのに、後になって、それが跡形もなく崩れ去ってしまうとは、どのような意味をもつでしょうか。

人の自己改革と再生について、その実態を知らされないなら、これは、だれひとり、分からない秘義です。その内的意味上の事柄について、後述するつもりですが、ここでは予備知識として、簡単に触れておくことにします。

② 自己改革にあたって、人は最初、〈みことば〉からの諸真理、すなわち教義を学び、それを記憶に蓄えます。ところが自己改革ができない人は、諸真理を学び、それを記憶に蓄えて、それだけで充分だと思いますが、それが大きな誤りです。

吸収した諸真理には、善が導入され、善に結ばれなくてはなりません。しかし自然的人間の中で、自己愛と世間愛の諸悪がとどまっているかぎり、善の導入が開始されることもないし、善に結ばれることもありません。

自己愛と世間愛の助けで、諸真理は初めて紹介されますが、諸真理は、そのような紹介役と結ばれることは、決してできません。結びつきが行われるためには、自己愛・世間愛を介して導入され、蓄積された諸真理は、まず放逐されなければなりません。もちろん実際は、放逐されるわけでなく、表面に現われないように、内に引き込まれ隠されます。外見上では、それを真理の欠落・喪失と言います。

こうして初めて、自然的なものが、内部から照らされるようになります。その時になると、自己愛と世間愛の諸悪は退き、退けば退くほど、それだけ諸真理が蓄積され、善と結ばれるようになります。

外見上、諸真理が人の中で、欠落していくように見えるとき、〈みことば〉ではこれを荒涼 と言います。それは夕方に例えられますが、朝になる前の人間の状態です。表象的教会では、一日が夕方から始まるのは、そのためです。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.