天界の秘義 # 5256

Написано Эмануэль Сведенборг

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5256. 「いいえ、わたしではありません」とは、単なる人間から出るものではないという意味です。ヨセフが演じているのは、主であり、その主に焦点が置かれている場合、「わたしではありません」とは、わたしに属していることではないわけで、結局は、単なる人間から出たことでなく、神に依存することを意味します。なぜなら、予知なさるのは神であり、そこにどんな意味が込められているかを知るのは、神だからです。

主のご在世当時、主は、予知され、摂理的配慮をなさいました。ただし人間性の中に宿っておられつつも、神性に根ざしておられました。ところが栄化なされた暁には、神性だけに根ざしたものとなりました。栄化された人間性とは、神的なものだったからです。

人間性は、それ自身として見ると、神からの〈いのち〉を受け入れる〈かたち〉に他なりません。ところが主の栄化された人間性、すなわち主の神人性は、神からの〈いのち〉を受け入れる〈かたち〉ではなく、〈いのち〉の存在そのものであり、〈いのち〉の発出の源でした。天使たちが主について抱いているのは、そのような考え方です。

しかし、来世にやってくる当代のキリスト教会出身者は、ほとんどみな、主を一個の他人のように考えています。主に神性が添え結ばれていると思っても、エホバから切り離しているだけでなく、エホバから発出する聖性からも切り離して考えています。神はおひとりであると言いますが、念頭にあるのは三神です。神性は、その三神が、たがいに分有していると考えます。複数のペルソナに分け、それぞれを神と呼び、それぞれに、特有の属性を帰します。そのため、来世では、キリスト教徒は三神を拝んでいると言われます。たとえ一人の神だと言っても、念頭には、三神があります。

② 来世では、キリスト教に改宗した異教徒は、主おひとりを礼拝します。かれらの信じているのは、至高なる神が、地上で、みずからを人として表わされ、しかもその至高なる神が、神人 であるということです。それで至高神について、そのように考えていない人が、万一いるとすれば、神について何も考えていないばかりか、神について考察することもなく、その結果、神を認めず、神を愛することもありません。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.