Шаг 57: Study Chapter 28

     

マタイ28章の意味を探る

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A look from inside the sepulchre in Israel.

第28章


新しい安息日。


1.安息日の薄明かりの中、週の初めの[日]が明けると、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に来た。


とある。「安息日」の意味」。


この章は、"安息日の終わりに"という言葉から始まる。伝統的に安息日は金曜日の終業時に始まり、土曜日の終業時に完了した。安息日の尊重は十戒の一つであったので、宗教的権威者はこの24時間を最も神聖なものと考えていた。そのため、安息日にはいかなる仕事もしてはいけないという聖書の教えが厳格に守られていた。ヘブライ語の聖書には、「仕事は六日間行わなければならないが、七日目は安息日の休息日であり、主にとって聖なる日である」と書かれている。安息日に何らかの仕事をする者は、死刑に処せられる」(出エジプト記31:15; を強調した)。

ヘブライ語の「安息日」という言葉は、שּבַ(シャバット)ּで、「休み」「平和」という意味です。宗教指導者たちはこれを、あらゆる肉体労働からの休息を意味すると解釈した。ある時、安息日に棒を拾っていた男が捕まり、モーセとアロンと民衆の前に引き出されて、彼の処遇が決定された。主はモーセに言われた、『その者は死刑に処せられねばならない。全集団は宿営の外で石をもってその者に石を投げなさい』」とある。そこで、主がモーセに命じられたとおり、彼らは彼を陣営の外に連れ出し、石で打ち殺した」(民数記15:35-36).

これは、イエスが生まれた宗教世界の状況を垣間見るもので、戒律が文字通り理解され、厳格に執行される世界であった。イエスの弟子たちが安息日にトウモロコシを摘み取ったとき、宗教指導者たちがどれほど怒ったかは、すでに見たとおりである(「安息日」)。12:1-4). 同様に、安息日にイエスが人の枯れた手を癒したとき、宗教指導者たちは激怒し、「彼らは出て行ってイエスに対して相談し、いかにして彼を滅ぼそうかと考えた」(B)。12:14). 彼らの目には、イエスが安息日に「働いている」と映ったのです。その違反は死によって罰せられる神聖な伝統に背いたのだ。

このような安息日に対する考え方は、神が厳格で規則を重んじる方であり、たとえそれが棒を拾ったり、トウモロコシを抜いたり、病気を治すといった罪のないことであっても、安息日を破るような人は誰でも滅ぼそうと決意しているという考えに基づいている。安息日には、重いものを運ぶことさえ許されなかった。預言者エレミヤが言うように、「主はこう言われる、『あなたがたの命のために、安息日に重荷を背負ってはならない』。しかし、もしあなたがたが私に従わないなら、私は、消えない火でエルサレムの宮殿を滅ぼす」(イエレミヤの預言書17:21; 27ccc ?).

このように、神が怒り、復讐心に燃えていることを示唆する記述は、ヘブライ語の聖典の至る所に見られる。しかし、これは当時の人々が神をどのように見ていたかを示す正確な描写である。ヘブライ語聖書は、霊的に理解すれば無限の知恵を含んでいるが、霊的な意味を離れて文字で書かれた言葉は、神の本性よりも、それを書いた人々の本性について明らかにしている。 1

このような誤った考えを、神は正さねばならなかったのです。そのため、神ご自身が直接来て、ご自分の本当の姿を示し、戒めについての理解を深めなければなりませんでした。憎しみは殺人の一種であり、情欲は姦淫の一種であり、安息日は肉体労働や重い荷を運ぶだけのものではないことを教えられたのです。だから、わざわざ重荷の話をされたのは、物理的なものを指しておられるのではありません。もっと内面的な、私たちが抱えている心配、不安、恐れなどの内なる重荷のことであり、私たちが捨てきれない恨み、怒り、憎しみのことでした。これらは、私たちの魂に重くのしかかるものです。だから、「労苦している者、重荷を負っている者は、みなわたしのもとに来なさい...そうすれば、あなたのたましいは休まるであろう。わたしのくびきは軽く、わたしの重荷は軽いからである」(11:28-29).

主にあって休むとき、私たちは「魂の休息」を見出すことができる。これが安息日の内面的な意味である。また、安息日は聖書でいうところの「6日間の労働」の後にあることにも注目すべきです。この "6日間 "は霊的な試練の時である。この間、私たちは、たとえ困難であっても、自分が知っている、信じている真理に従って生きる機会を与えられているのです。その過程で、私たちの内なる性質が神の意志とより完全に一致するようになり、ますます深い平安を感じるようになります。その過程で勝利するたびに、聖典の言葉では "第七日""安息日 "と呼ばれる天国のような心の状態に導かれるのです。 2

前回、イエス様が十字架にかけられたとき、私たちのためにこの プロセスの模範を示してくださいました。最も苦しい試練を受けながらも恨むことなく、最も耐え難い苦痛を受けながらも怒ることなく、最も暗い絶望を受けながらも、人類の救済という自らの使命を見失うことなく。その過程で、イエスは地獄を征服し、その人間性を神としたのです。これがイエスの誘惑の終わりであり、安息日に対する新しい、より高貴な考えの始まりでした。それは、私たちが自分の意志を神の意志と一致させようと努力した後に続く、平和の安息日です。神が私たちを通して、また私たちと共に働いてくださるとき、私たちはいつも労苦から休まるのです。

このエピソードは、安息日について、神について、そして私たち自身についての古い考え方の終わりを意味しています。夕べが終わり、暗闇が静まるとき、私たちの中に新しい理解の光が生まれ始めます。ですから、古い安息日が終わった後、「週の初めの日が明け始めた」(28:1). 日曜日が来たのだ。

石ころを転がす。

2.主の使いが天から下って来て、門から石を転がし、その上に座ったからである。

3.その顔は稲妻のようであり、その衣は雪のように白かった。

この最終章の冒頭の言葉は、終わりと始まりの両方を語っている。私たちはもはや利己的な関心事に振り回されることも、低次の本性の要求に支配されることもありません。私たちの意識の中に人生についての新しい考え方が生まれると、主が私たちの人生の細部にまで責任を持たれていることを理解し始めます。このことを知れば、私たちは自分自身が神に支配され、神の意志を実行する準備ができるようになります。内なる重荷を捨て、主のもとで霊的に休むことができるのです。新しい安息日が始まろうとしているのです。 3

この新しい「安息日の状態」で、私たちはマグダラのマリアともう一人のマリアと共に、再び主の墓の前にいることに気づきます。2日前、イエスは十字架につけられ、墓に安置されました。金曜日の夜と土曜日が過ぎましたが、まるで何も起きていないかのように見えます。イエス様はまだ墓の中におられます。これは、御言葉が私たちに語りかけているように見えない、生気がなく、死んでいるように見えるときを表しています。私たちは、神が御言葉の中におられることを知っていますが、神の声を聞くことも、神の存在を感じることも、神の感触を感じることもありません。まるで、神が「死んで葬られた」ように見えるのです。しかし、真実は正反対です。神は御言葉を通して常に私たちに語りかけておられますが、私たちは神がおっしゃることをいつも聞いているわけではありません。

このことをより明確に理解するために、イエスが洞窟に埋葬され、洞窟の口を石で塞がれたことを忘れてはなりません。私たちが神の言葉を正しく聞き、その中にイエスの存在を感じるためには、石を転がして取り除かなければならないのです。この「石」は、私たちと神との間に立ちはだかるあらゆるものを表しています。利己主義であれ、この世のことに夢中になっていることであれ、あるいは単に神の導きを信じていないことであれ、この石は転がされなければならないのです。私たちが霊的な感覚を取り戻し、まったく新しい生き方があることを理解するまでに、人生の大激変が必要なことがあります。それは、主の十字架刑に相当するもので、私たちの意識に地震が起こるようなものです。そのため、「大きな地震があった。主の使いが天から下ってきて、門から石を転がし、その上に座った」(2)と書かれている。28:2).

三日目の朝、大地を揺るがした地震は、イエスが十字架につけられたときに起こった地震、すなわち神殿の幕が二つに裂け、死者が墓からよみがえった地震を思い起こさせる。また、地震が地球の土台を揺るがしたことも思い起こさせる。三日目の朝、雷と稲妻があり、......山全体が激しく揺れた」とあるように(出エジプト記19:16-18). あの地震は、主が十戒を授けるための神の前奏曲として起こったのです。神の真理の声は、時に地響きのような迫力をもって私たちに迫ってきます。

私たちにも、十字架につけられるときがあり、人生を揺り動かすときがあります。このような精神的な揺り戻しは、私たちを内面へと誘い、私たちが持っている勇気と信仰のすべてのオンスを呼び起こす。イエスのように、私たちもまた、果たすべき使命があるという確信をもって、ミクロの十字架にかかることができます。イエスのようなレベルではありませんが、それでも神から与えられた使命です。神への信仰に支えられ、私たちは怒りや自己憐憫、絶望に身をゆだねることを拒否することができるのです。その代わりに、たとえ戦闘中であっても、主に安住し、力と知恵を求めることができるのです。

このとき、天使が降りてきて、石を転がします。

文字通りの物語では、宗教指導者たちが石を封印していた。宗教指導者たちが石を封印したことは、私たちが生ける神とつながる希望を自ら封印してしまうことを表しています。ですから、天使が石を転がしてその上に座ると、主の御言葉の真理が天から私たちの心に降りてきて、間違った信念を押し流し、より真実な考えが優勢になることを表しているのです。これは、私たちの人生における地震の瞬間となり得るのです。 4

そして、これが私たちの仕事です。それは、私たちが他人を愛することを妨げる利己主義と貪欲の石を、真理が転がしてくれるようにすることです。人生の喜びを体験することを妨げる絶望と自己憐憫の石を、真理が転がしてくれるようにすることです。真理が、私たちが神を見、理解することを妨げる無知という石を転がし去ることです。要するに、私たちの仕事は、神の言葉から得られる真理、すなわち舞い降りた天使が、私たちと神との間に邪魔な石のように立っているあらゆる偽りやねじれた信念を転がし去るようにすることです。 5

石を転がした天使の表情は「稲妻のよう」であり、その衣服は「雪のように白い」と描写されている(28:3). 天使の描写は、私たちの人生にもたらされる神聖な真理の輝きと純粋さを示唆しています。洞察は、私たちの心の内なる空を稲妻のように閃光し、降ったばかりの雪のように純粋な知覚をもって私たちの意識の中で輝きます。聖典では、このような天からの輝かしい洞察と明晰な知覚を「天使の降臨」と表現しています。天使は、虚偽の石を転がして、真理の光を私たちに見せてくれるのです。先ほど、地震の中で十戒が授けられたとき、空に稲妻が走ったことが紹介されました。これは、神の真理が稲妻のように私たちの人生に入ってくることを意味している。 6

女たちは歓喜する。

4.そして、彼を恐れて、番人たちは震え上がり、死んだようになった。

5.天使は女たちに言った。「あなたがたは、十字架につけられたイエスを捜していることを知っているので、恐れてはならない。

6.主はここにおられません。主が言われたとおり、よみがえられたのです。さあ、主が横たわった場所を見なさい。

7.そして、急いで行って、弟子たちに、「あの方は死人の中からよみがえられました。見よ、あの方はあなたがたの前にガリラヤに行かれます。

8.そして,恐れと大きな喜びとをもって墓場から急いで出て行き,走って行って弟子たちに[この]ことを報告した。

9.そして,彼らが弟子たちに報告しようとすると,見よ,イエスが彼らに出会って,「こんにちは」と言われた。そして,彼らは来て,イエスの足につかまり,彼を拝んだ。

10.そこで、イエスは彼らに言われた。「恐れるな。行って、兄弟たちに、ガリラヤに行くように報告しなさい。

新しい理解の光は、夜明け前に、不安な考えを静め、内面の乱れを静め、厄介な恐怖を鎮めなければならない。この時、新しい安息日が始まるのです。新しい状態の夜明けには、石は転がされなければなりません。これは、主を忍耐強く待っている人々にとって、新しい理解の到来を意味し、新しい認識の最初の光となるのです。

イエスを待ち望んでいた二人のマリアは、石が転がされることを覚悟しています。恐怖で震え、死人のようになった」衛兵とは異なり(28:4) 天使が石を転がしたとき、女性たちは天使の言葉に慰められます。天使は女性たちに「恐れるな」と言います。「あなたがたが十字架につけられたイエスを捜していることは知っています。イエスはここにおられない。イエスは言われたとおり、よみがえられたのだ。来て、主が横になっておられるところを見なさい」(28:5-6). 女性たちは墓に近づき、中を見ると、天使の言葉が本当であることがわかります。イエスはそこにおられないのです。「早く行って、弟子たちに、イエスが死人の中からよみがえったこと、そして、あなたたちより先にガリラヤに行かれることを告げなさい、そこで、イエスに会うことになります」と天使は言います(28:7).

二人の女性が弟子たちに会って素晴らしい知らせを伝えようと走っていると、イエス様が途中で二人に出会います。"よく来たね "と言われます。(28:9). 彼らの背後には空の墓があり、彼らの前には生ける神がいます。これは、天使が石を転がし、永遠の真理を宣言するとき、私たちの人生に起こる変化の絵です。「彼はここにいない、よみがえったのだ」。

疑いと不信の石が転がされると、生ける神はどこにでも存在し、神の命で宇宙を貫き、自然界に絶えず流れ込んで鮮やかな色と甘い香りを生み出し、人間の心に絶えず流れ込んで気高い思考と愛情を生み出していることが分かります。私たちが人生のどこにいようとも、神はいつもそこにいて、受け入れてくれるよう求めているのです。 7

イエスが二人のマリアを出迎えたとき、彼らは畏敬の念をもって応えました。彼らはイエスの足につかまって、彼を拝んだ」とあるように(28:10). 彼らはイエスの足をつかみ、礼拝した」とありますが、これは仲の良い友人同士の再会というよりも、イエスの神性を自然に、心から認めたものであることを示唆しています。イエスの地上での働きにおいて、人々がイエスを礼拝するように仕向けられた瞬間がありました。賢者たちがベツレヘムに来たとき、「彼らはイエスを拝んだ」(2:11); イエスが海を静め、水の上を歩かれたとき、弟子たちは「彼を拝んだ」(14:33); そして、女がイエスのもとにやってきて、悪魔に取りつかれた娘を癒してくれるよう懇願したとき、「彼女はイエスを拝んだ」(15:25). 同じように、このエピソードでは、二人のマリアが彼の足につかまって礼拝します。 8

ベツレヘムでの奇跡の誕生、ガリラヤでの水の上の歩行、エルサレムでの死からのよみがえりなど、主への礼拝につながるすべての出来事は、ほとんどの場合、奇跡に基づくものであった。しかし、奇跡に基づく礼拝は、礼拝を始めることはできても、真の礼拝ではありません。それは単に外的な説得であって、信仰を強制することはできても、その人の本質的な人格の一部となることはないのである。 9

主への真の崇拝は、外的な奇跡に基づくものではなく、それがどんなに説得力のあるものであっても、です。それは単に戒めを守ること、つまり、自己中心的な傾向や利己的な態度がゲッセマネの苦悶やカルバリの磔刑を経験しなければならないとしても、自分の意志ではなく、神の意志を行うことなのです。そうするたびに、私たちの霊に起こるその後の変化は、内なる奇跡をもたらす神の能力の真の確認なのです。これこそが、私たちを真の礼拝に導くものなのです。 10

二人のマリアがまだイエスの足元で礼拝しているとき、イエスは天使の慰めの言葉を繰り返した。「恐れることはない」とおっしゃいます。「行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで、彼らは私を見るであろう」(28:10). この福音書の前半で、イエスは弟子たちに、ご自分の身に何が起ころうとも、やがてガリラヤで彼らに会うと約束されました。ですから、弟子たちは落胆してはいけません。"羊飼いが打たれても"、その時、イエス様は再びよみがえられると言われました。「よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤに行く」と言われたのです(26:32). そして今、このエピソードの最後の言葉で、イエスは約束を繰り返されます。しかし、今回は重要なことが付け加えられました。「そこで、彼らは私を見る」と言うのです。主を見る」とは、主の教えを理解し、主の意志を実行することです。「山上の垂訓で、「心の清い人は幸いである、彼らは神を見るであろう」と言われました。

これから見るように、これが "ガリラヤ "と呼ばれる州にいることの意味である。 11

神殿警備隊の報告。

11.彼らが行っていると、見よ、衛兵の何人かが都に入って来て、行われたすべてのことを祭司長に報告した。

12.そして、長老たちと共に集まって相談し、兵士たちにかなりの銀を与えた。

13.そして,「夜になって来た弟子たちが,わたしたちが眠っている間に,かれを盗んだと,あなたがたは言うのだ。

14.もしこのことが総督に聞えれば,わたしたちは総督を説得して,あなたがたを安全にするでしょう。

15.そして、彼らは銀を受け取って、教えられたとおりにした。この言葉は、今日に至るまでユダヤ人の間で公になっている。

一方、エルサレムでは、宗教指導者たちが非常に困っていた。神殿の衛兵がやって来て、自分たちが目撃したことを報告したのである (28:11) — 地震、天使の出現、石の転がし、そして空の墓。天使を前にして「恐怖で震え上がり」、「死人のようになった」衛兵たちです。

この驚くべき知らせを聞いた宗教指導者たちは、すぐに長老たちと集まり、実際の復活の可能性に対する信仰を払拭するための計画を立てました。そこで宗教指導者たちは、衛兵に大金を与えて、実際に起こったことを何も語らないようにすることにした。その代わり、もし誰かが何が起こったのかと尋ねたら、衛兵たちは「夜、弟子たちがやって来て、私たちが寝ている間に彼を盗んで行きました」と答えることにしたのです(28:13). さらに、宗教指導者たちは、もしピラトに自分たちの怠慢(勤務中の睡眠)がばれたら、自分たちがすべて面倒をみて、衛兵を困らせないようにすると言っている(。28:14). 衛兵は賄賂を受け取る。彼らは銀を受け取り、指示されたとおりにした」と書かれているように、(28:15).

復活の現実。

イエス様を憎んでいる人たちと、イエス様を愛している人たちが、復活の知らせをどのように受け止めるかを比較するのは興味深いことです。イエスを愛する女性たちにとって、イエスの復活の知らせはスリリングなものです。彼女たちは大喜びで、弟子たちに良い知らせを伝えるために駆けつけます。そして、途中でイエスに出会うと、イエスの足をつかみ、礼拝するのです」(28:9).

しかし、イエスを憎む人々にとって、このニュースは喜びをもたらすものではありません。それどころか、宗教指導者たちは深く憂慮しています。イエスが滅ぼされれば、その影響力が弱まり、自分たちの権力基盤を脅かす存在ではなくなると考えたからです。しかし、もしイエスが十字架につけられても死ななかったということが知られたら、イエスが神を冒涜した者であることを証明する彼らの努力は水の泡となる。そこで、彼らは賄賂と嘘に頼り、看守に金を払って嘘の報告を流すように指示する。

宗教指導者たちの頑なな不信仰と、衛兵たちの公平な証言を前にしても、自分たちのイエスに対する評価が間違っているかもしれないと認めない執拗さは、変わろうとしない心の硬直を表しています。信じようとしない人には、どんな証拠も十分ではありません。ですから、宗教指導者たちは、私たちの低次の自己を代表して、イエスを滅ぼそうと躍起になっているのです。たとえ物理的にできないとしても、イエスの信用を落とし、イエスを信じる人々の間でイエスの評判を落とそうと努力します。 12

これらの声は、復活が本当でないと思わせようとする内なる声です。復活は突飛な話だとほのめかすのです。神がイエス・キリストとしてこの世に来られ、十字架につけられ、よみがえられたと言われるとき、これらの声は疑念を抱かせます。イエスが十字架にかけられた後、宗教指導者が看守に指示したように、看守が眠っている間にイエスに従う者たちが墓から死体を盗んだと考える方が妥当である、というのである。福音書によれば、衛兵が報告した話は当時の人々の間で広く流布されたそうです(28:15).

復活の真実に対する疑念は、復活そのものと同じくらい古いものです。それは巨大なデマ、異教徒の神話、さらには煙と鏡による手品とまで言われてきた。ある学者は、復活を信じることは知的な自殺行為であり、理性と論理を徹底的に否定することだと断言した。復活を否定する巧妙な説明は、それを求めるすべての人に提供されている。私たちには、復活を受け入れるか拒否するかの自由が残されている。同じように、私たちは神の言葉、さらには神ご自身を受け入れるか否かの自由を持っているのです。

地球が丸いという考えを拒否することもできますし、その代わりに平らだと信じることもできます。地球が太陽の周りを回っているという考えを否定し、代わりに太陽が地球の周りを回っていると信じることもできます。私たちの肉眼や自然な感覚では、平らな地球と昇る太陽を信じることは確かに真実のように思えます。同じように、私たちが神からではなく、自分自身から生命を得ているというのも、確かに真実のように思われます。しかし、啓示は、神がおられること、そしてすべての生命は神のみから来ることを教え、理性はそれを確認する。このような霊的な現実は肉眼で観察することはできませんが、それが真実であることは理性的に見ることができるのです。 13

同様に、私たちはイエスの復活の事実についての報告を "信じる "必要はないのです。なぜなら、復活には合理的に納得できる理由があるからです。それは次のような単純なものだ。神は死ぬことができない。このことは、私たち一人ひとりが、内なる十字架と内なる復活を喜んで受けるならば、理解できる現実です。もし私たちが「自分の十字架を負い、イエスに従う」ことに忠実であったなら(16:24), 私たちは、誘惑の戦いを経験することがどういうことかを知っています。確かに苦悩は知っていますが、誘惑の戦いの向こう側にある平安も知っています。そして、悪を避け、神に助けと力を求め、試練の時に戦ってくださるのは主だけであることを認識することによって、霊的に成長することができるのだと知っているのです。誘惑の戦いを経験するたびに、主の真理と力に頼りながら、私たちの人生に復活がもたらされるのです。そのような時、私たちは、主イエス・キリストの復活が本物であることを、内面的に、経験的に知り、理解するようになるのです-それは、何度も何度も私たちのうちに起こるからです。それは単なる歴史的事実ではなく、現在進行形の現実なのです。私たちは日々、主イエス・キリストの復活を自分の中で、さらには、あらゆる瞬間に体験することができるのです。 14

新たな約束の地。

16.そして、十一人の弟子たちはガリラヤに入り、イエスが指示された山に入った。

17.そして,彼を見て礼拝したが,[まだ]疑っていた。

18.天においても地においても,すべての権威はわたしに与えられている。

19.だから,行って,あらゆる国の人々を弟子とし,父と子と聖霊の名によってバプテスマを施しなさい。

20.「そして、わたしがあなたがたに命じたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。アーメン"

天使は二人の女性に簡単なメッセージを与えました。「早く行って、弟子たちに、あの方は死人の中からよみがえられ、あなたたちより先にガリラヤに行かれたことを告げなさい」(28:7). 女たちが急いで弟子たちに知らせようとすると、イエスご自身が女たちに会い、さらに伝えるべきことを告げられました。「行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで彼らは私を見るであろう」(28:10).

この福音書の最終回になると、私たちはイエスの約束が本当であることを発見します。そして、11人の弟子たちはガリラヤに向かい、イエスが指示された山へ行った。そして、イエスを見ると、彼を拝んだ」(28:16). そのわずか数節前に、女性たちはイエスの足を掴んで「拝んだ」(28:9). そして、そのわずか7節後に、弟子たちも同じようにしました。どちらの場合も、その直後の反応は敬虔と畏敬の念でした。彼らは主を礼拝しているのです。また、弟子たちが12人ではなく、「11人」であることにも注目すべきです。これは文字通りの意味で、ユダがもう一緒にいなかったからです。しかし、ぶどう園の労働者のたとえ話で指摘したように、「11時」に来た人たちは、私たちの中にある、神に応答し、神から流れ込んでくるものを受け取ることができる無垢な受容の状態を表しています。 15

私たちの中のガリレイ。

このすべては、ガリラヤの山で起こります。しかし、なぜガリラヤなのでしょうか。エルサレムからガリラヤまでは少なくとも70マイル、2日か3日の旅です。エルサレムかエリコのどこかで会えばよかったのに。なぜガリラヤなのか?理由はたくさんあります。一つは、イエスを殺そうとする宗教指導者たちから遠く離れたガリラヤで会った方が安全だと思ったからである。もう一つの理由は、ガリラヤはイエスが最初に弟子たちを集めた場所だからである。それは再会の時であり、再びつながり、すべてが新鮮で、新しく、刺激的であった初期の喜びと興奮を思い出す機会なのであろう。

イエスは同じことを私たちにもしてくださいます。エルサレムでの苦難(誘惑)の後、私たちを何度も何度も初めの愛に連れ戻し、主に従う私たちの最初の情熱を再び燃え立たせてくださるのです。主は私たちをガリラヤに呼び戻し、シンプルで単純な主への信仰と信頼に立ち戻らせるのです。 16

11」という数字が幼少期の感受性や無邪気さを表すように、ガリラヤは主に対する無邪気で幼い信頼に満ちた時代を表しているのです。ガリラヤの人々は洗練された知識人ではなく、神学的な訓練を受けた人々でもありませんでした。ほとんどの場合、エルサレムの知的・文化的中心地から遠く離れたところに住んでいた、単純な人々でした。農民や漁師のような田舎者で、学問はあまりありませんでしたが、包容力のある心を持っていました。イエスはここで、飢えた人々に食べ物を与え、病人を癒し、盲目の目を開き、耳の聞こえない人を止めないという宣教を始められた。足の不自由な人を歩けるようにし、口のきけない人を話せるようにされました。イエスは説教をし、弟子たちを指導する時間もありましたが、ほとんどのエネルギーを、この無邪気で感受性豊かな人々の身体的な必要を満たすことに注ぎました。

ガリラヤは、私たち一人ひとりが持っている素朴で単純な信仰の場所、つまり、良い生活を送っている人なら誰でも簡単に受け入れることができる信仰を象徴しています。私たちの心が正しい場所にあるとき、私たちは簡単に真理を受け取ることができます。なぜなら、私たちは善いことをすることを切望しているので、何が真実であるかを学びたいと思うからです。ですから、イエスが11人の弟子たちをガリラヤに呼び集めたのは、無垢な信仰、真理を学ぶ意欲、善を行おうとする気持ちを象徴する場所としてふさわしいと言えます。 17

大宣教命令について

弟子たちを霊的にも地理的にもガリラヤに連れてきたイエスは、弟子たちに大きな使命を与えようとしています。私たちは彼らの興奮と熱意を想像することができます。死を打ち破ったイエスが、今、彼らのもとに帰ってきたのです。しかし、それでも「疑う者がいた」(28:17). これは理解できる。なにしろ、弟子たちはまだ学んでいるのですから。そして、「弟子」という言葉は、原語のギリシャ語では、μαθητής (mathētḗ) - 学んでいる人という意味なのです。彼らにとって、それは簡単なことではありませんでした。驚きと畏敬の念を抱くこともあれば、混乱、困惑、失望、恐怖を感じることもあった。また、自分たちの弱さや身勝手さを直視しなければならないこともありました。確かに彼らは遠くまでやってきたが、まだまだ先は長く、学ぶべきことも多い。

同じように、主は私たちが完璧であることや完璧な信仰を持つことを期待しておられるのではありません。主は、私たちが疑おうと思えば疑えるように、私たちの自由を守り続けておられます。主は、私たちが信仰の旅路の途中で疑念が生じ、弱気になるときがあることを知っておられます。しかし、主は私たちの強さも知っておられます。疑惑が私たちを襲うとき、そして襲うであろうとき、イエスは近くに来て、祝福された保証のことばを話されます。ちょうど今、ガリラヤで弟子たちに話されたように、「天においても地においても、すべての権威は私に与えられている」(*1)と言われます。28:18). この言葉と約束によって、主は弟子たちの大任を果たされるよう強められます。「だから、行って、あらゆる国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、私があなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19).

弟子たちは今、自分たちの力でイエスの仕事を引き継いでいるのです。ガリラヤの人々や、イスラエルの家の失われた羊だけでなく、聞く耳と受け取る心を持つすべての国の人々に「すべての国民に洗礼を授ける」のです。バプテスマの水を受ける人は、これが真のキリスト教の真理を教えられることを望んでいることを知り、理解するのです。この洗礼は、「父」の名、すなわち主イエス・キリストの心にある神聖な愛、「子」の名、すなわちイエスの唇から出る神聖な真理、「聖霊」の名、すなわち復活し栄光を受けたイエスの人間性から出る神聖なエネルギーと力によって行われます。すべての権威とすべての力は彼の中にあり、彼からである-三位一体の神であり、三人の人ではなく、一人の神の中の三つの属性の神である。 18

クロージングシーンについて

このエピソードが終わるとき、私たちは弟子たちと山頂にいるイエスの美しい絵が残されています。私たちは、モーセが何年も前に約束の地を見下ろすために山頂に立ったことを思い出します。しかし、モーセはまだ死すべき存在でした。モーセはそのネボ山で死んだ。その時、主が命じられたのは

ヨシュアを新しい民の指導者として任命されました。「私のしもべモーセは死んだ」と主はヨシュアに言われた。「だから、起きて、このヨルダンを越えて行きなさい。あなたの足の裏が踏む場所はすべて、私があなたに与えたものだ。強く、勇気をもって、恐れず、動揺せず、あなたの神はあなたが行くところどこでも、あなたとともにおられる」(ヨシュア記1:2-3; 9).

主がヨシュアに命じられたように、イエスも弟子たちに前進するように、つまり人の心と精神という約束の地へ行くようにと命じています。この新しい約束の地に入るとき、彼らは人々の中にある善と真のみを求めなければならない。そして、イエスが教えてくださった新しく輝かしい真理ですべての国民に洗礼を授け、新しい宗教の時代への道を準備することです。彼らは恐れず、むしろ強く、勇気をもって行動しなければならない。主がヨシュアに「どこへ行くにも共にいる」と言われたように、イエスは弟子たちに「わたしは、時代の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20).

時代の終わり。

イエスはこの福音書の中で、何度も「時代の終わり」について語っている(。13:39; 13:49; 24:3) と、もう一度言及して終わられています(28:20). どういう意味ですか?それはいつになるのでしょうか?イエスは具体的な時刻を示さず、また特定の場所も示されません。なぜなら、「時代の終わり」は時間的、空間的に起こるものではないからです。 19

時代の終わり」とは、ある意味で、堕落した宗教的な時代の終わり、終わり、あるいは完成を意味します。文字通りには、イエスが来られる前に人々を支配していた宗教的な時代の終わりを意味します。同時に、イエスの文字どおりの教えに基づく新しい宗教の時代の始まりを意味している。しかし、前時代の終わりと新時代の始まりは、宗教的な制度というよりも、むしろ私たちの内面的な問題に関わるものである。つまり、「時代の終わり」とは、腐敗した宗教指導者が率いる宗教組織が終わり、その指導者が誠実に生きる新しい宗教が始まるということ以上の意味を持っているのである。もっと深く言えば、「時代の終わり」とは、私たち一人ひとりが自己中心的な生き方に終止符を打ち、他者の必要性に目を向け始めることなのです。傲慢な態度に終止符を打ち、謙虚さと教えを受ける姿勢を養い始める私たち一人ひとりのことなのです。 20

自己陶酔と傲慢の時代の終焉を迎え、私たちは新しい時代、新しい時代、新しい次元の存在へと入っていきます。このとき、私たちは意識の大きな転換を経験します。私たちの中の古い時代は徐々に終わりを告げ、新しい時代が幕を開け始めるのです。このとき、私たちは「イエス・キリストの世代」(1:1) が私たちの魂の中で起こり始め、私たちは彼の神性を宣言する準備が整いつつあるのです。もはや「ダビデの子、アブラハムの子」と見るのではなく (1:1), というより、神の子として。

したがって、今、連続したシリーズの次の福音書に移り、"神の子イエス・キリストの福音の始まり "という言葉で始まるのである。

Сноски:

1天界の秘義3605[3-4]: “悪の影響下にある人々は,......エホバも自分たちと同様に,憎しみ,怒り,怒り,憤りを持つことができると信じています。ですから,みことばではそのように表現されています。人の性質がそうであるように,主もその人に現れるからです。参照 新教会教義の簡単な解説62: “神は人に怒らないが、人は自分の中の怒りから、神に怒る......。悪を行う者が自らの悪によって罰せられると、その罰が神からのものであるかのように見えるのである。"

2天界の秘義8893: “人が再生される前、つまり新しく創造される前は、人の自然な生活が霊的な生活に対抗して支配しようとするので、平穏と安らぎがありません。そのため、主はこの間、人のために、襲ってくる地獄と戦って、労苦します。しかし,愛の善が(人に)植え付けられると,すぐに戦いは止まり,安息が訪れます。なぜなら,その人は天に導入され,そこの秩序の法則に従って主によって導かれ,平和の状態になるからです。これらのことは,「エホバは七日目に休まれた」によって意味されている。"も参照してください。 天界の秘義8494: “[安息日]の休息は、誘惑のない平和な状態を意味します。これは、安息日の日々にあったような「安息」の意味から明らかで、[人の中に]善と真が結びつく平和な状態の代表である。"

3天界の秘義8455: “平和は、主がすべてのことを指示し、すべてのことを備え、良い結果に導いてくださるという、主に対する確信がある。"

4真のキリスト教71[2]: “神が大宇宙を支配するように、人々は小天地から小天地を支配するのが秩序の法則である。

5啓示された黙示録400[14]: “天使が [洞窟の] 口から石を転がしてその上に座ったのは、主が主への接近を妨げるすべての偽りを取り除き、神の真理を開かれたことを意味する......。祭司長やパリサイ人たちは石を時計で封印したが、天からの天使がそれを取り除き、その上に座ったのである。"参照 啓示された黙示録655[4]: “石」は真理を意味し、逆の意味では虚偽を意味する。"

6啓示された黙示録687[18]: “天使によって転がされた石は、閉ざされていた神の真理、すなわち御言葉を意味している......。[今、主によって開かれたのである。"参照 天界の秘義8914[2]: “十戒は雷鳴と稲妻の中でシナイ山から宣言された・・・稲妻の閃光は、善からの真理が持つ輝かしい閃光のしるしであった〔あるいは〕主の神的善から発せられる神的真理であった。"。

7真のキリスト教49: “神はどこにでも存在する"参照 真のキリスト教341: “神はすべての人とともに絶えず存在し、理解する能力と愛する能力とともに生命を与えている」そして インバウンド23: “主は、悪人も善人も、すべての人と常に共にあります。主の存在なしには、誰も生きることはできない。"主は絶えず行動し、促され、受け取られるように努力される。

8啓示された黙示録75: “足元に倒れた」という言葉は、神の前で謙虚な気持ちで礼拝することを意味する。"

9神の摂理130: “奇跡やしるしによって改心する者はいない、なぜならそれらは強制するものだから......。奇跡は、奇跡を行う者が言い、教えたことが真実であるという信念と強い説得力を誘発することを否定することはできない。このことは、最初は、人の思考の外側を占め、呪縛してしまうほどである。しかし、こうなると、人は自由と理性と呼ばれる二つの能力を奪われ、したがって、自由から、理性に合致した行動をとる能力を奪われるのである。"

10啓示された黙示録815[4]: “当時、信仰は奇跡に基づくものでした......。主はこのように礼拝されることを許された......奇跡に基づく信仰が先でなければならないからである。しかし、人がみことばから真理を学び、それに従って生きるとき、救われる信仰となるのです。"10143[5]も参照。要するに、主の戒めに従って行動することが、主に対する真の礼拝を構成するのである......」。他者を愛し、他者を信じる者が、その他者の意志と考えにしたがって意志し、実行すること以上に望むことはないのである。その人の唯一の願いは、相手の意志と考えを知り、その人に喜ばれることをすることである。"

11天界の秘義8767: “戒律に従った生活を送る人は、主に結ばれているのです。戒律は生命について教え、また生命を授けることによって、天国への道を開き、主を見る目を開かせるからである。"参照 啓示された黙示録447[5]: “ガリラヤは...人生の善の中にいて真理を受ける人々との教会の成立を意味する"

12啓示された黙示録1014[2]: “なぜなら、彼らは善と真理の敵であり、憎む者だからである。なぜなら、悪は善を憎み、偽りは真理を憎むからである。参照 啓示された黙示録1012[4]: “最高の意味での戒めである "あなたは殺人をしてはならない "とは、誰からも神の信仰と愛、ひいては人の霊的生命を奪ってはならないということである。これは殺人そのものである。"

13天界の秘義1378: “自分の目で見ていないことは何一つ真実でないと信じてきた人たちがいる......たとえば、地球を一周する船の航行だ。感覚的な誤謬に流されやすい人は、船と船員が反対側に来ると落ちると信じ、対極にいる人々は自分の足で立つことができないと信じるかもしれない。このようなことは、他の人生においても、感覚の誤謬に反しているが、真実である多くの事柄、たとえば、人は自分自身の命ではなく、主からの命を持っていること、その他非常に多くの事柄についても同様である。"

14天界の秘義2405: “三日目の朝に主が復活されたことは、......再生する者の心の中に、主が毎日、実に一瞬たりとも復活される真理を含んでいるのである。"

15啓示された黙示録194: “11」という数は、まだ完全ではないが、気心の知れた子供や幼児のような受け入れ態勢を意味する。"(の解説を参照)。 20:9)

16天界の秘義2094[2]: “現在では、理性でそうだとわからない限り、何も信じない人がたくさんいます......。このような人々は、まずどうしてそうなるのかをある程度理解しない限り、いかなる信仰も受けることはできないので、このようなことが説明されているのである。しかし、御言葉を単純に信じる者は、これらのことをすべて知る必要はない。"彼らはすでに、今述べたような他の人々が、このようなことを知らなければ到達できない終末にいるのである"。

17啓示された黙示録447: “ガリラヤ」という言葉は、人生の善きにつく者たちとの教会の成立を意味する。"も参照してください。 天界の秘義2986: ““人生の善きにつく者はみな、容易に真理を受け取ることができる。"

18神の摂理262: “前後の節から明らかなように、主は、今、栄光を受けられたご自身の中に三位一体があることを知らしめるために、このように言われたのです。直前の節では、天と地におけるすべての力は彼に与えられていると言い、直後の節では、時代の終わりまで彼らとともにいると言っています。

19天界の秘義4535[5]: “慈愛がなくなり、したがって信仰もなくなるのは、教会における時代の終わりである。"

20天界の秘義2243[8]: “教会に関する時代の終わり(あるいは時代の完成)とは、悪が頂点に達したときです。このことは、すべての人について同じです。参照 啓示された黙示録870: “時代の終わりとは、古い教会の終わりと新しい教会の始まりを意味する...。主が直接来られることは,主が天地の主エホバであり,新しいエルサレムを意味する主の新しい教会に属するすべての者が主だけを崇めるということを,みことばの中でご自身に啓示されることです。この目的のために,主は今,みことばの内的または霊的な意味を開かれたのです。"