天界の秘義 #5313

Nga Emanuel Swedenborg

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5313. 「あなたに優るのは、王位のあるわたしだけだ」とは、実際には、霊的なものの天的なものが主導で、自然的なものを用いて行っているけれど、自然的なものに由来するかのように見えることを意味します。「他の人(あなた)に優る」とは、より偉大であるということですが、ここでは外見上、観察上の結果です。

「王位」すなわち王座とは、ここでは自然的なものを指します。霊的なものの天的なものが「王座につく」という場合の「王座」は、自然的なものを意味します。なぜなら自然的なものは、霊的なもの、ここでは、霊的なものの天的なものにたいし、王位に似ているからです。

一般的にいうと、下位にあるものは、上位にあるものに対して、王座に似ています。上位にあるものは、下位の中で働いていますが、それも下位を媒介にして働いており、働く際、前述のように、下位を媒介にしているため、下位の力で働いているように見えます。パロがヨセフにたいして、「あなたに優るのは、王位のあるわたしだけだ」と言ったことには、そのような意味があります。

② 〈みことば〉の中で、神の〈みことば〉とか、神による裁きについて言及する際、王位(王座)という言葉がしばしば用いられます。その際の「王座」は、内的意味では、神の王権にかんする事柄を意味します。そして「王座につく」というと、王または裁き主としての主ご自身を意味します。

ただし王位(王座)は、他の多くの場合と同様、相対的な意味があります。「王座につく」というと、神それ自身と、主の神人性を意味します。そのときの「王座」とは、主から発出する〈神の真理〉を意味します。「王座につく」が、主から発出する〈神の真理〉を意味する場合、「王座」は、〈神の真理〉が満ち満ちている普遍的天界を指しています。

「王座につく」が、より高度の諸天界にある〈神の真理〉の面での主を意味する場合、「王座」とは、最下の天界にある〈神の真理〉や、教会における〈神の真理〉を意味します。以上のように、「王位(王座)」の意味は、相対的です。

「王座」には、〈神の真理〉に関係ある事柄を指します。〈みことば〉で「王」というと、真理を意味するためです。「王国」というときも、同じです。王については、1672,1728,2015,2069,3009,3670,4581,4966,5044,5068節を参照してください。王国については、1672,2547,4691節を参照してください。

③ 〈みことば〉の中で、王位や王座には、とりわけどのような意味があるか、一連の引用句から明らかになります。マタイによる福音書には次のようにあります。

「わたしはあなた方に言うが、いっさい誓ってはいけない。天界を指して誓ってはいけない。そこは神の玉座であるからだ。地をさして誓ってはいけない。そこは神の足台であるからだ。エルサレムをさして誓ってはいけない。それは大王の都であるからだ」(マタイ 5:34,35)。

他の個所を引用します。

「天界をさして誓う者は、神の玉座とその上に座しておられる方を指して誓うことになる」(マタイ 23:22)。

上掲で、天界が「神の玉座」であると、明言しています。「足台」と言われている地は、天界の下にあるもの、つまり教会を意味します(566,662,1066,1067

1262,1413,1607,1733,1850,2117,2118,2928,3355,4447,4535節参照)。

同じく、イザヤ書には次のようにあります。

「エホバは言われる。天はわが玉座、地はわが足台である、と」(イザヤ 66:1)。

ダビデの書には次のようにあります。

「エホバは、その玉座を諸天界の中に築かれた」(詩篇 103:19)。

マタイによる福音書には次のようにあります。

「人の子が、その栄光の中にすべての聖なる天使たちとともに来るとき、かれは栄光の座につくであろう」(マタイ 25:31)。

上掲は、最後の審判をテーマにしています。「玉座につく」人とは、王の呼び名でもあります(マタイ 25:34,40)。内的意味では、上掲の「栄光の座」は、天界にあって、〈神の善〉に由来する〈神の真理〉です。「その座につく」とは、〈神の真理〉にもとづく裁き主としての主で、上掲句では、王を指します。

④ ルカによる福音書には、次のようにあります。

「かれは偉大なる者となり、いと高き方の息子と称せられる。そして、主なる神は、父ダビデの王座を、かれにお与えになるであろう」(ルカ 1:32)。

上掲は、天使がマリヤに語った言葉です。そこで「ダビデの王座」とありますが、これはダビデが所有していた王国、すなわち地上の国ではなく、天界における王国であることは、だれにも明らかです。したがって、「ダビデ」と言っても、ダビデのことではなく、主の神的王権を指します。王座とは、発出する〈神の真理〉であり、主のみ国を成立させる根拠です。ヨハネの書には、次のようにあります。

「わたしが霊のうちにあったとき、見よ、天界に玉座が据えられ、その玉座に座っている方がいた。座っている方は、碧玉(へきぎょく)や赤瑪瑙(めのう)のように見えた。また玉座の周囲には、エメラルドのように見える虹が現れた。玉座の周囲には、二十四の玉座があり、二十四人の長老が、それらの座についているのを見た。・・・玉座からは、稲妻、雷鳴、声が発し、その座の前には、火をともした七つの燭台があったが、これは神の七つの霊であった。玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。玉座の真中と周囲には、前後に眼がついている四匹の動物がいた。・・・この動物が、玉座に着き、代々生きたもう方に、栄光と誉れと感謝の行いをささげているとき、二十四人の長老は、玉座にいます方の前に伏し、代々生きたもう方を拝み、玉座の前に自分の冠を投げ出すのである」(黙示録 4:2-終わり)。

⑤ 上掲では、主の栄光の玉座が記されており、その玉座をとおして、主から発出する〈神の真理〉が浮き彫りにされています。ただし、以上の表象が何を意味するか知らない場合、この預言的言葉の中に込められるものは、何も知ることはできず、より高度の神的なものを欠いたまま、すべてをそのまま信じてしまいます。文字上の意味しか知らない人は、天的王国について、この世の王国と同じような考え方しかできません。

しかし、「天界に据えられた玉座」とは、天界にある〈神の真理〉であり、つまりは、〈神の真理〉の面から見た天界を指しています。「玉座に座っている方」とは、主です。その方が「碧玉と赤めのう」のように見えたのは、〈神の真理〉を意味しているためです。〈みことば〉に出てくる宝石類は、みなそうです(114,3858,3862節参照)。また宝石一般は、信仰の諸真理を意味します(643,1298,3720,3769,3771,3773,3789,3798節参照)。

⑥ 「玉座の周囲に見えた虹」とは、善から透き通るように流れる諸真理を意味します。来世における色彩は、天界の光からきます。そして天界の光とは、〈神の真理〉です。来世における虹については、1042,1043,1053,1623-1625節を参照してください。天界における色彩については、1053,1624,3993,4530,4922,4677,4741,4742節を参照してください。

「玉座の周囲にある二十四の玉座」とは、「十二」の場合と同様、真理の全体像です。「十二」が真理の全体像を示すことは、577,2089,2129, 2130,3272,3858,3913節を参照してください。「玉座からは、稲妻、雷鳴、声が発していた」とは、善の中に宿っていない人々にたいしては、〈神の真理〉から恐怖が沸いてくることを示します。「火をともした七つの燭台」とは、善に由来する真理の情愛を意味します。これは善のうちにいない人々には、断罪をもたらすことになります。だからこそ、「神の七つの霊」と言われています。この霊たちが断罪をもたらすことについては、これから述べることで明らかになります。

⑦ 「玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった」とは、自然的なものの中にある真理のすべてを指します。つまり諸認識と科学知です。「海」にはそのような意味があることは、28,2850節を参照してください。

「玉座の真中と周囲には、前後に眼がついている四匹の動物がいた」とは、諸天界において、神のみ力による理知的なものを指します。「四」は、理知的なものと、意志的なものとの結合を意味します。諸真理は、人の理知的な部分に属し、諸善は、人の意志的な部分に属します。「前後に眼がついている」と言われているのは、そのためです。「眼」は理知的なものを意味し、そのため、より高度の意味では、信仰に属する事柄を指します(2701,3820,4403-4421,4523-4534節)。

「四」は、「二」の場合と同様、結びつきを意味します(1686,3519,5194節)。主から発出する〈神の真理〉の聖性については、後述する予定です。

⑧ 「二十四の玉座と二十四人の長老」とは、真理の全体です。すなわち、全体像としてとらえた信仰です。「十二」は、前述のように、同じような意味があります。したがって、「十二の玉座があって、それに十二人の使徒たちが座についている」とは、内的意味では、真理の全体を指します。その真理の全体から、また真理の全体にもとづいて、裁きが行われます。マタイによる福音書にあります。

「イエスは弟子たちに言われた。よく聞きなさい。世改め にあたって、人の子がその栄光の玉座につく時、わたしに従ったあなた方も、十二の玉座に座って、イスラエルの十二族を裁く」(マタイ 19:28)。

ルカによる福音書には、次のようにあります。

「わたしの父が、わたしに王国を任されたように、わたしも、あなた方に任せる。あなた方が、わたしの国で、わたしの食卓で飲み食いし、玉座に座って、イスラエルの十二族を裁くようになるためである」(ルカ 22:29,30)。

「十二使徒」とは真理の総体です(2129,2553,3354,3488,3858節参照)。「ヤコブの十二人の息子」、さらに「イスラエル十二族」もそうです(3858,3921,39263030,4060,4603節)。使徒たちは、だれも裁くことはできません(2129,2553節)。

⑨ 同じように、ヨハネの書には、次のようにあります。

「わたしは、玉座を見た。するとかれらは、その座に座った。そしてかれらに、裁きの力が与えられた」(黙示録 20:4)。

「玉座」とは、裁きの根拠になり、裁きの手段となる真理の全体をさします。

「天使」にも同じような意味があります。「主が裁くために来られ」(マタイ 25:31)ますが、それはその天使たちとともに来られます。「天使たち」とは、〈みことば〉では、主に属する何かを指します(1705,1925,2320,2821,3039,4085節参照)。〈みことば〉では、神からの諸真理です。その諸真理は、〈みことば〉で、裁きとも言われています(2235節)。

⑩ また他の多くの個所で、玉座は、エホバすなわち主の玉座の意味で用いられています。玉座のうちには、王国の表象があるからです。より上位の天界で、神の真理や裁きが話題にのぼるとき、末端の天界では、それが玉座として現れます。

前述したように、玉座は表象です。それで預言的〈みことば〉の中では、それだけ頻繁に玉座が登場してきます。また最古の時代から、玉座は、王の印でした。その印が王権を意味するからです。また次の個所を見てください。モーセの書には次のようにあります。

「モーセは祭壇を築いて、その名をエホバ・ニシと名づけた。そしてモーセは言った。エホバの玉座に手をのべる。代々アマレクと戦われるエホバの戦いである、と」(出エジプト 17:15,16)。

「エホバの玉座に手をのべる」とは何か、代々アマレクと戦われるエホバの戦いとは何か、内的意味なくして、だれにも分かりません。つまり玉座とか、アマレクとは何かを知らないかぎり分かりません。〈みことば〉で、「アマレク」とは諸真理に対抗する諸偽り、「玉座」とは戦われる〈神の真理〉です(1679節)。

⑪ ダビデの書には次のようにあります。

「エホバよ、あなたはわたしの裁きを行われました。わたしのゆえに裁かれました。正義の判事として、玉座に着かれました。・・・エホバは永遠に留まり、裁きのため、その玉座を設けられました」(詩篇 9:4,7)。

同じく、

「神なるあなたの玉座は、代々、永遠です。あなたの王国の王杓は、公正の王杓です」(詩篇 45:6)。

同じく、

「そのお方の周囲には、雲と暗やみがあり、正義と公正は、その玉座の台です」(詩篇 97:2)。

エレミヤ書には次のようにあります。

「そのとき、エルサレムはエホバの玉座と称えられ、諸民族は、エルサレムに集まるであろう」(エレミヤ 3:17)。

⑫ 「エルサレム」は、主の霊的王国です。この王国は、エゼキエル書では、新しいエルサレムと言われ、黙示録には、「天界から下ってくる聖なるエルサレム」とあります。主の霊的王国は、善を宿している〈神の真理〉が中心になっているのにたいし、天的王国では、〈神の真理〉の発出源である〈神の善〉が中心です。エルサレムが「エホバの玉座」と言われている理由が分かります。ダビデの書には、次のようにあります。

「エルサレムには、裁きのための玉座が設けられた」(詩篇 122:5)。

エレミヤ書では、シオンをエホバの栄光の玉座と言っています。

「あなたは、ユダを拒否されたのですか。あなたの魂は、シオンを嫌悪されたのですか。・・・あなたのみ名のために、うち捨てないでください。あなたの栄光の玉座を辱めないでください」(エレミヤ 14:19,21)。

「シオン」とは、主の天的王国です。

⑬ 預言書の中で、眼で見える様子で、随所に記されていますが、天界での裁きの主は、どのように表象されているでしょう。ダニエル書に次のようにあります。

「玉座が設けられているのをわたしは見た。日の老いた方が座していた。その衣は雪のように白く、頭の毛は純粋の羊毛のようであった。その方の玉座は、火の炎、その車輪は燃える火であった。その方の前から、火の川が流れ出た。その方に仕える者は、千人の千倍、その方の前に立つ者は、十万人の十万倍であった。その方は、裁きの座に着き、書き物が開かれた」(ダニエル 7:9,10)。

天界では、以上の光景が永遠に続きます。すべては表象ですが、上位の諸天界にいる天使たちの言葉が、映像となって下り、それが見えてきます。主から感知力を与えられている天使的霊は、以上が何の意味かを弁えています。

例えば、「日の老いた方」とは、だれのことか、「雪のように白い衣」とは何か、「純粋の羊毛のような頭の毛」、「火の炎のような玉座」、「燃える火の車輪」、「その方から火の川が流れ出た」とは何か、などです。「燃える火」および「火の川」は、神の愛の善を表わします(934,4906,5071,5215節)。

⑭ 同じく、エゼキエル書には次のようにあります。

「ケルブ天使たちの頭上に、サファイアのように見える広がりがあり、その上に玉座に似たものがあった。玉座に似たもののさらに上のほうに、人の〈かたち〉に似たものがあった」(エゼキエル 1:26; 10:1)。

同じく、列王記上には、次のようにあります。

「預言者ミカは言った。わたしは、エホバがその玉座に着き、諸天の万軍が、その方の傍、その方の右と、その方の左に立っているのを見た、と」(列王上 22:19)。

個々にわたる表象の意味と、その意味の由来を知らない場合、地上の王たちのように、主が玉座に着かれるなど、記録のとおりだとしか考えません。しかし諸天界では、そのようなものはなく、最下の末端天界にいる人々の眼前に、そのように見えてきます。かれらが神的秘義を目撃するとき、そのようなイメージとなって見えてきます。

⑮ 主の王権というと、主から発出する〈神の真理〉を指します。ソロモンが築いた王座は、その王権を表象します。それについて、列王記上にあります。

「ソロモン王は、象牙の大玉座を造って、それを純金で覆った。その玉座には、六つの段があり、玉座のうしろに円形の天蓋があり、座席の両側にひじ掛けがあり、ひじ掛けの傍に二つのライオンが立っていた。また六つの段の両側に、十二のライオンが立っていた」(列王上 10:18-20)。

こうして、栄光の玉座が表象されました。「ライオン」は、戦い、勝利する〈神の真理〉であり、「十二のライオン」は、諸真理の全体像です。

⑯ 〈みことば〉に出てくるほとんどすべての言葉には、対立する意味があります。王座とか玉座もそうで、対立する意味では、偽りの王国を意味します。ヨハネの書には、次のようにあります。

「ペルガモにある教会の天使にたいして、わたしはあなたの行いと、あなたが住んでいる所と、サタンの座がある所を知っている、と」(黙示録 2:12,13)。

同じく、

「竜は、海からのぼってくるケモノに、自分の力とその王座と、大いなる権限を与えた」(黙示録 13:2)。

同じく、

「五番目の天使が、ケモノの座にその鉢を傾けた。するとケモノの王国は、暗くなった」(黙示録 16:10)。

イザヤ書には次のようにあります。

「あなたは、心の中で言った。わたしは諸天界に上り、神の星々の上に、自分の王座を高めよう、と」(イザヤ 14:13)。

上掲は、バベルについての言及です。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.