天界の秘義 # 5307

Од стране Емануел Сведенборг

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5307. 「この人を差し置いて、神の霊が宿る人を、他に見つけることはできないだろう」とは、真理の流入を指しますが、その真理には、準内部のものに依存する善、すなわち霊的なものの天的なものが宿っています。「人」とは真理を指します(3134,3309,3459節)。「神の霊」とは、準内部のもの、すなわち神のみ力に依存する善を指します。

神の霊は、神から発出するものです。しかも神は善そのものですから、善そのものから発出します。神から発出するものとは、善が宿る真理を指し、〈みことば〉ではこれを「神の霊」と言います。霊それ自身が発出するのではなく、善の宿る真理それ自身、すなわち聖なる真理が発出するからです。霊は、産み出されるための手段です。これは、善を宿す真理であって、「ヨセフ」が表象的に演じる霊的なものの天的なものを表わします。

② ヨセフが霊的意味上、主を指していることは、教会内では周知のことです。主が天的ヨセフと呼ばれるのはそのためです。しかし「ヨセフ」が主に属する何を表象しているのかは知られていません。

アブラハムも、イサクも、ヤコブも、主を表象します。またモーセも、エリヤも、アロンも、またダビデも、その他〈みことば〉に登場する多くの人々が、主を表象しています。しかしかれらは互いに違ったやり方で、主を表象します。

「アブラハム」は、神性そのものの面から、主を表象します。「イサク」は、神的合理性の面から、主を表象し、「ヤコブ」は、神的自然性の面から、主を表象し、「モーセ」は、律法すなわち、歴史的〈みことば〉の面から、主を表象し、「アロン」は、祭司職の面から、主を表象し、「エリヤ」は、預言的〈みことば〉の面から、主を表象し、「ダビデ」は、王権の面から、主を表象します。ヨセフが何を表象するかについては、3969,4286,4585,4592,4594,4669,4723,4727,4963,5249節を参照してください。

ここで、「ヨセフ」が表象しているのは、いわゆる合理性に根ざした霊的なものの天的なもの であって、これは、それ以外の単語では言い表せません。天的なものとは、神に根ざす善であり、霊的なものとは、当該の善に根ざす真理ですから、結局、〈主の神人性に根ざした善の真理〉を意味します。主はこの世で生涯を送られ、ご自身を栄化されましたが、そのとき、当該の善の真理を超越され、〈神の善〉そのものになられました。すなわち、人間性の面でのエホバになられました。

③ 以上の秘義について、詳細に多くを語ることができません。ただ言えることは、主がご自身の中における人間性を、漸進的に神化されていった様子を、表象的にあらわすのが目的で、ヨセフはエジプトに来て、まず侍衛長ポテパルの家で奴隷として働き、そこで監禁され、後ではエジプトの宰相になりました。

以上の様子を記録したのが、〈みことば〉です。しかもその〈みことば〉は、内的意味上、神的なものを含みます。その内的意味は、何よりも、天使たちに役立つためで、その中には、英知が宿っています。その英知は、人間の英知に比べると、理解不能、表現不能です。

ただしその内的意味は、何よりも歴史的物語を愛する人々に、役立ちます。天使が主からの流入を介して、神的なものを感じとるそのとき、同じ内容の物語は、人の精神の中で、繰り広げられていきます。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.