天界の秘義 #5280

Ngu Emanuel Swedenborg

Funda lesi Sigaba

  
Yiya esigabeni / 10837  
  

5280. 「地では年々の豊作が認められなくなる」とは、以前に存在した真理について、何も感じとれなくなるという意味です。「認められる」とは、感じとられるとの意味があります。「年々の豊作」とは、増し加えられる真理を指します(5276,5278節)。ここでの「地」とは、エジプトの地ですが、これは自然的精神を指します(5276,5278,5279節参照)。したがって、「地では年々の豊作が認められなくなる」とは、自然的なものの中で、以前にあった真理が、何も感じとれなくなるという意味です。

② 本節でのテーマは、荒涼の最終的状態です。これは再生を前にして、その直前に襲ってくる状態です。本節ではそれが問題の焦点になっていますから、その様子について述べることにします。

人はみな、天界に入るため、自己改革し、新しく生まれること、すなわち再生されなくてはなりません。

「だれでも、ふたたび生まれなければ、神の国を見ることができない」(ヨハネ 3:3,5,6)。

人は罪の中に生まれます。それは、両親、祖父母、曽祖父母による長年の経由で、遺伝的になって増えつづけ、子孫に受け継がれます。生まれてくる子は、継続的に増加していく遺伝悪の中に誕生します。したがって、罪以外のなにものでもありません。そのため、再生されなければ、遺伝悪に留まれば留まるほど、それだけ罪の中にいることになります。

再生されるには、まず自己改革が必要です。これは信仰の諸真理の助けによります。〈みことば〉と、〈みことば〉由来の教義から、善が何であるかを学びます。〈みことば〉すなわち、〈みことば〉由来の教義から、善を認識することを、信仰の真理と呼びます。信仰の諸真理は、すべて善から溢れ、善へ流れていきます。なぜなら、信仰の諸真理の目的は、善だからです。

③ これが最初の状態で、これを自己改革 の状態と言います。教会には、幼児期から青年期になるまで、この状態に導き入れられた人が、多くいますが、再生される人はわずかです。なぜなら、教会にいる人々の大半は、信仰の諸真理や善の諸認識を学習するにしても、名誉や名声、利得を目的にしているからです。信仰の諸真理が、そのような世俗的愛をとおして導入された場合、その愛が除去されない中は、人が新しく生まれ、再生されることはできません。したがって、その愛が除去されるようになるため、試練・誘惑の状態に入れられます。これは次のようです。

地獄の徒党によって、その世俗愛が掻き立てられます。かれらは、そのような愛の中に生きる欲望をもっているからです。その一方では、天使たちは、本人の真理と善の情愛を奮い立たせます。この情愛は、幼児期以来、純真無垢の状態で染み込んでおり、それが内部に隠され、このときに用立てるため保管された情愛です。こうして悪霊と天使たちの間で、戦いが起こりますが、人は、自分の中で起こる戦いを試練・誘惑として感じます。

ここで問題になるのは、諸真理と諸善です。あらかじめ染み込んだ諸真理は、悪霊たちが吹き込む偽りのせいで、追放・撤去されたかのように、外面に現われなくなります(5268-5270節参照)。そのとき、人はあたかも再生にいたるため頑張っているような感じです。主は、内的道筋を通って、自然的なものの中へ、善由来の真理の光を染みとおらせてくださいます。そして諸真理は、その光に照らされて、秩序を回復していきます。

④ 再生する人の様子は、以上のとおりです。しかし現在、この状態に入れられる人は、わずかしかいません。霊的〈いのち〉に属する諸真理や諸善による教化の中で、みなせいぜい自己改革を始めますが、青春期に達するとすぐ、この世の勢いに飲みこまれてしまい、地獄霊たちの集団になじみ、次第に天界から離れていき、その結果、天界が存在することを信じなくなり、霊的試練・誘惑に出会うことも不可能になります。それでもし、霊的試練・誘惑に遭遇するなら、たちどころに屈服してしまいます。そうなると、その後のかれらの状態は、以前の状態に比べて、悪くなります(マタイ 12:45)。

以上から、ここで内的意味上述べていること、すなわち自己改革の状態と再生の状態とは、どのようなものかが明らかになります。これは直前の5279節で触れたように、本節では、試練・誘惑の最終的状態、すなわち絶望の状態を浮き彫りにしています。

  
Yiya esigabeni / 10837  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.