3708. 「海側(西)と、東とに広がり」とは、善が無限に拡大することを指します。「北と、南と」とは、真理の無限な拡大を示します。その結果、善と真理のあらゆる状態を指すことは、拡大を示す「広がる」の意味から明らかです。ここでは主に言及しているため、無限の拡大を意味します。
「海側」すなわち西とは、依然として曖昧な善、善のはじまりです。「東」は、明るい善であり、完成された善です。「北」は、依然として曖昧な状態の真理です。「南」は、光の中にある真理です。
② 〈みことば〉の多くの個所で、海側すなわち西、および東、北、南が登場します。これには個々全体にわたり、内的意味が存在するという事実は、人にはまだ知られていません。内的意味では、文字上意味する現世的なものでなく、霊的なものや天的なもの、最高の意味では、主ご自身の神的なものを表わします。
〈みことば〉で「西、東、北、南」が世界の方位であり、「四方に広がる」が数の増加としてしか理解されませんでしたが、以上は方位でも、特定国民の数の増加でもなく、善と真理の状態、その拡大です。それは〈みことば〉の多くの箇所、とりわけ預言書に記されている箇所から明らかです。西、東、北、南など、天界ではまったく知られていません。
天界における太陽は、主を表わし、日の出入りや、最高で昼間、最低で夜になるこの世の太陽とは違って、常時現れ、その光を受ける人々の状態に応じたものになります。つまりそこから出る光は、英知であり、理知です(1619-1632,2776,3138,3167,3190,3195,3222,3223,3339,3341,3485,3636,3643節)。したがって、各自の英知と理知の状態に呼応して、現れます。
善と真理のうちにある人々には、熱と光のうちにあり、天的な人や霊的な人には、日の出の時、または昼間の太陽として現れ、善と真理のうちにない人々には、日没または夜のときの太陽のようです。
③ したがって、「東、南、西、北」とは、〈みことば〉の内的意味で、善と真理の状態を意味します。ただ忘れてならないのは、〈みことば〉における善と真理の状態は、前述のように、方位で記述されるだけでなく、春、夏、秋、冬という季節すなわち一年の状態、朝、昼、夕、夜という時間帯すなわち一日の状態によっても、同じような理由から、記述されます。
特定の一語一語がどのような意味をもつかは、〈みことば〉にある個所によって、明らかになります。「東」は主を表わしますが、それは愛と仁愛の善が主によるものだからです。それは101,1250,3249.節で前述したとおりです。また「南」は、光の中での真理です(1458,3195節)。
④ 純粋な意味で、「西」とは何か、「北」とは何か、またその対立する意味は何かは次の箇所からわかります。イザヤ書には次のようにあります。
「恐れてはならない。わたしはあなたとともにいる。わたしは、あなたの子孫を東から来させ、西から集める。わたしは北に向かい、与えなさいと言い、南には、引き止めてはならないと言う。わが子らを遠くから来させ、わが娘らを地の果てから来させなさい」(イザヤ 43:5,6)。
上掲は、ヤコブとイスラエルである新しい霊的教会がテーマです。「子孫を東から来させ、西から集める」とは、善の中にいる人々を指します。「北に向かい、与えなさいと言い、南には、引き止めてはならないと言う」とは、真理の中にいる人々を指します。
⑤ ダビデの書には、次のようにあります。
「エホバにあがなわれた人々は言え。エホバは、かれらを敵の手からあがない、東、西、北、南の地からかれらを集められた。かれらは、人の行く道のない荒野にさまよい、住みつく町を見つけられなかった」(詩篇 107:2,3,4)。
上掲は、善と真理について無知な人々がテーマです。「東と西から」とは、善について無知な人々で、「北と南から」とは、真理について無知な人々です。「荒野にさまよう」とは、善にたいして無知な人々のことです。「行く道のない(道の孤立した中で)」とは、真理について無知な人々です。「住みつく町を見つけられなかった」とは、善と真理の両方について無知な人々です。「町」とは真理の教義事項です(402,2449,2943,3216節参照)。また「住みつくところ」とは、善についての修飾語です(2268,2451,2712節)。
⑥ イザヤ書には、次のようにあります。
「見よ、この人たちは遠くから来る。見よ、あの人たちは北から、西から、またスエネの地から来る」(イザヤ 49:12)。
「北」とは、真理の面で漠然としている人々、「西」とは、善の面で漠然としている人々です。「遠くから来る」とは、主に由来する光から縁遠いからです。⑦ アモス書には次のようにあります。
「見よ、わたしが飢饉をこの地にもたらす日が来る。・・・かれらは海から海へさまよい、エホバの言葉を求めて、北から東へと走りまわるが、これを見出せない」(アモス 8:11,12)。
「飢饉」とは、認識上の欠乏と欠陥を指します(1460,3364節)。「海から海へとさまよう」とは、認識が存在するところを探すことです。海とは、認識一般を指します(28,2850節)。「北から東へと走り回る」とは、光の中にある事柄にたいして、認識が曖昧であることを指します。「エホバの言葉を求めて・・・見出せない」とあるので、認識を指していることは明らかです。
⑧ エレミヤ書には次のようにあります。
「あなたは北に向かって、この言葉を叫びなさい。背信のイスラエル、帰りなさい。わたしは、わたしの顔をあなた方に向けて落とさない。わたしには、哀れみがある。・・・その日には、ユダの家はイスラエルの家に向かって行き、北の地から、わたしがあなた方の父祖に相続させた地に、いっしょに来る」(エレミヤ 3:12,18)。
上掲は、諸民族(異邦人)によって、教会が再建されることに言及しています。「北」とは、真理について無知でありながらも、善の〈いのち〉にある人々です。ここで意味しているのは、北でも北の地でもないことは、イスラエルがもう存在していなかった事実から、明らかです。
⑨ 同じく、次のようにあります。
「生けるエホバは、北の地からイスラエルの子らを上らせる」(エレミヤ 16:15)。
「北」とは、真理への無知を意味することは、以前と同様です。同じく、
「見よ、わたしはかれらを北の地から導き、かれらを地の果てから集める。かれらの中には、目や足の不自由な人がいる」(エレミヤ 31:8)。
「北の地」とは、真理について無知であるため、善についても無知であることを言います。「カナン」の地は、主のみ国を表象し、その結果、み国に由来する善を表わします(3705節参照)。その真中にあるのが「シオンとエルサレム」で、これは真理に結ばれた内奥の善です。したがって、それから隔たっている点、善と真理の面での曖昧さを表わします。漠然たる曖昧さの中にあるものは、すべて「北の地」また「地の果て」と言われます。
⑩ さらに、主からの光を伴う善の流入は、すべてその末端で、人の蒙昧さで終わっているため、北はまた「集会」とも言われます。イザヤ書には次のようにあります。
「あなたは、心のうちで言った。わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座そう、と」(イザヤ 14:13)。
同じく、
「門よ、嘆け。町よ、叫べ。ペリシテの全地は消えうせた。北から煙が来るからだ。その集会で孤立する者はいない」(イザヤ 14:31)。
ダビデの書には次のようにあります。
「大いなるエホバは、われらの神の都の中、その聖なる山で、大いにほめたたえられる。・・・シオンの山は、北の端にあって大王の都であり、全地のよろこびである」(詩篇 48:1,2)。
「天はあなたのもの、地もまたあなたのもの、あなたは世界とそれに満ちるものに基を置かれた。北と南はあなたが造られました」(詩篇 89:11,12)。
「北」とは、善と真理の光から比較的遠いところにいる人々を指し、「南
(右)」とは、比較的近くにいる人々を指します。主の右にいる人々については、1274,1276節を参照してください。
⑪ ゼカリヤ書には次のようにあります。
「わたしは、四両の戦車が、二つの青銅の山の間から出てくるのを見た。・・・赤、黒、白、まだらの強いものであった。・・・天使は言った。かれらは、全地の主のみ前に立って、そこから天の四つの風として出て行くものです。黒ウマを着けた戦車は北の地に出て行き、白ウマはそのあとを行き、まだらウマは南方の地に出て行きます。・・・北の地に向かって行く者は、北の地でわたしの霊を休ませます、と」(ゼカリヤ 6:1-8)。
「二つの青銅の山の間から出る戦車」とは、善にかんする教義を意味します。「戦車」とは、教義事項であることは、前にも触れました。「山」とは愛です(795,1430,2722節)。したがって、二つの山とあるのは、主への天的愛と、隣人への霊的愛を指します。「青銅」とは、自然性の中にある善を指します(425,1551節)。
「ウマ」とは、理知的なもの、さらに善にかんする教義の理解を意味します(2760-2762,3217節)。「南方の地」すなわち南とは、善と真理についての諸認識をもっている人々です(1458,3195節)。「北の地」とは、善と真理についての無知のうちにある人々です。しかし、心の正しい異邦人は、善の〈いのち〉のうちにあり、かれらのもとで新しい教会が再建されます。神の霊は、そこで休まれると言われます。
⑫ エレミヤ書には次のようにあります。
「エホバはイスラエルの家の子孫を、当地から北へと戻された。イスラエルを当地に住まわせるため、わたしが追放した全地から」(エレミヤ 23:8)。
「地から北へ」とは、善と真理についての無知による薄暗さからという意味です。同じく、
「北からくる鉄や青銅を砕くことができるだろうか」(エレミヤ 15:12)。
「鉄」とは、自然的真理です(425,426節)。「青銅」とは、自然的善です(425,1551節)。「北から」とは、自然性からという意味です。自然性は比較的曖昧で、境界線になるからです。このような預言は、言うまでもなく、鉄や青銅が北に由来すると言っているのではありません。鉄や青銅の意味が分かれば明らかで、神的なもの、先行・後続する何かを意味します。
⑬ マタイによる福音書には次のようにあります。
「あなた方に言う。多くの人が東からと西から来て、アブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席につく」(マタイ 8:11、ルカ 13:29)。
「多くの人が東からと西から来る」とは、諸認識と善の〈いのち〉をもつ人々を指します。また曖昧さや無知の中にありながらも、教会の内外にいる人々です。東や西は、善の状態を意味することは、前述しました。「アブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席につく」とは、主とともにあることです(3305節)。同様に、東からと西から来る人とは、主のみ国、すなわち主の教会の中にあって、主のみそばにいる人々です。それは預言書にあります。イザヤ書には次のようにあります。
「わたしは、あなたの子孫を東から来させ、西からあなたを集める」(イザヤ 43:5)。
他の箇所では、「人々は西からエホバの名を恐れ、東からその栄光を恐れる」(イザヤ 59:19)。
また、「日の出る方から、また西の方から、人々がわたしの他に神のないことを知るようになる。わたしはエホバである、わたしの他にはない」(イザヤ 45:6)。
また、「わたしは北から起こして来させる。かれは日の出るところから、わが名を呼ぶであろう」(イザヤ 41:25)。
⑭ その他、東、西、南、北に、以上のような意味があることは、幕屋の建設、イスラエルの子らの宿営や出発、カナンの地についての描写、新しい神殿、新しいエルサレム、新しい地についての描写などから、明らかになります。
幕屋の建設ですが、幕屋にあるすべては、方位にしたがって整然となっていることは、出エジプト記第38章を参照してください。東と西の角、および南と北がどうなっていたかは、出エジプト記 26:18,20,22,27; 27:9,12,13を参照してください。また燭台が、机の位置から南方向の住居側にむかい、机は北側に位置していたことは、出エジプト記 26:35; 40:22を参照してください。
⑮ また「イスラエルの子らの宿営と出発」については、次のとおりです。これも方位に準じたもので、集会の天幕の周りに陣取り、東に向かって、ユダ族、イッサカル族、ゼブルン族、南に向かっては、ルベン族、シメオン族、ガド族、西にむかって、エフライム族、マナセ族、ベンヤミン族、北にむかって、ダン族、アセル族、ナフタリ族の順でした(民数記 2:1以降)。
またレビ族からは、ゲルション人は西に、コハテ人は南に、メラリ人は北に、モーセとアロンとアロンの子らは、東に向かった住居の前にいました(民数 3:23-38)。これは善と真理の状態に呼応して、主のみ国での天的秩序を表わします。そして、南に向けて出発の合図を鳴らし(民数 10:6)、宿営のときと同じようにして、出発しました(民数 2:34)。
⑯ 「カナンの地」については、最初モーセによって、周囲の境界線が描かれ、南の端、西の端、北の端、東の端が決まりました(民数 34:2-12)。そして各部族に籤(くじ)で分けられました(ヨシュア記第15-19章)。したがって、カナンの地に住んでいた最古代人たちに従い、方位に準じた位置、距離、境界に則っていて、場所はすべて表象と含意の対象になりました(1607,1866節)。
⑰ エゼキエル書にあるように、「新しい神殿、新しいエルサレム、新しい地」も、方位にしたがって記録されています。都の構造は南向きです。建物の門については、正面が東向き、北向き、南向きになっています(エゼキエル 40:2,6,19, 20-46)。
神殿の寸法は、入口が、「北と南に向いており」(41:11)。前庭は、北、東、南、西に向いています(42:1,4,11,16-19)。イスラエルの神エホバの栄光は、東の道から入ります(43:1,2,4)。前庭の門は、44:1,2,4; 46:1,9,10,19,20にあります。聖地の境界線は第47章にあり、北に向かう場合(第15-17節)、東に向かう場合(第18節)、南に向かう場合(第19節)、西に向かう場合(第20節)があります。各部族ごとに方位に従った嗣業があり(同第48章)、聖なるエルサレムの門にかんしては、東、北、南、西にあります(黙示録 21:13)。
以上から、この世にある四方位は、聖なるものに準じ、聖なるものを表象し、秩序づけられていることが明らかです。内的意味では、方位でなく、主のみ国における善と真理の状態を意味します。
⑱ 対立する意味では、北と西は偽りと悪を意味することは、次の箇所からも分かります。エレミヤ書には次のようにあります。
「エホバの言葉が再びわたしに臨んで言う。あなたは何を見るか、と。わたしは答えた。わたしは開いた鍋を見ます。その正面は北に向いています、と。エホバは言われた。災いが北から開き、地の住民すべてに臨む。見よ、わたしは北の家族をみんな来るように呼ぶ、と」(エレミヤ 1:13-15)。
同じく、
「シオンにむかって印を立てなさい。集合しなさい。じっとしてはいけない。わたしは、北から災いと大きな破滅をもたらすからである」(エレミヤ 4:6)。
同じく、
「見よ、ざわめきの声と大きな騒ぎが北の地から来る。これはユダの町々を荒廃させる」(エレミヤ 10:22)。
同じく、
「テコアでラッパを吹き鳴らせ。・・・北から災いと大きな破滅が来る。・・・見よ、民が北の地から来る。地の果てから、大きな民族が起こる」(エレミヤ 6:1,22)。
同じく、
「わたしは、エホバの手から杯を受け、すべての民族に飲ませた。・・・エルサレムとユダの町々とその王たち、・・・エジプトの王パロ、・・・西のすべての群集、・・・アラビヤのすべての王たち、荒野に住む西のすべての王たち、・・・北のすべての王たちの遠き者、近き者もすべてこの杯を飲む」(エレミヤ 25:17-26)。
⑲ 同じく、
「足速の者も逃げられず、勇士も逃げられない。北の方、ユフラテ川の岸でかれらはつまずき倒れた。あの川のようにわきあがるのはだれか。・・・エジプトはナイル川のようにわきあがり、・・・そして言う。わたしは上って、地をおおい、そこにいる住民を滅ぼそう。・・・その日は、大能の主エホビの日、報復の日である。・・・ユフラテ川のほとりで、北の地で、大能の主エホビにとっての犠牲があるためである。・・・エジプトは、最高に美しい雌の子ウシだ。しかし北から破滅がやってくる。・・・エジプトの娘は、辱められ、北の民の手に渡される」(エレミヤ 46:6-10,20,24)。
同じく、
「エホバはこう言われた。見よ、北から水が湧き上がり、川のようにあふれ流れ、この地と、そこにある町と住民のすべてにあふれる」(エレミヤ 47:2)。
⑳ 同じく、
「エホバがバビロンに対して言われた。・・・北から民族が起こって、その地を荒廃させ、そこに住む人もないようにする」(エレミヤ 50:1,3)。
同じく、
「見よ、わたしはバビロンに対して、北の地から大きな民族を集めてのぼらせる。かれらはこれに向かって前線を築き、攻略する。・・・見よ、北から民が来る。大いなる民族と多くの王が、地の果から立ち上がる」(エレミヤ 50:9,41)。
同じく、
「そのとき、天と地と、そこにあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。滅ぼす者が北から来るからである」(エレミヤ 51:48)。
エゼキエル書には次のようにあります。
「ゴグに言いなさい。・・・北の果てのあなたの所から、多くの民はあなたと共に来る。・・・あなたは、わが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地をおおう」(エゼキエル 38:14-16)。
同じく、
「将軍ゴグよ、見よ、わたしはあなたに対抗する。・・・わたしはあなたを引きもどし、六つに分割し、北の果てから上らせ、イスラエルの山々に導き、・・・あなたはイスラエルの山々に倒れ、・・・野の面に倒れる」(エゼキエル 39:1,2,4,5)。
ゼカリヤ書には次のようにあります。
「エホバは言われる。北の地から逃れなさい。天の四方の風のように、わたしはあなた方を吹き散らす、と。シオンよ、逃げなさい。バビロンの娘といっしょに住み着いた者よ」(ゼカリヤ 2:6,7)。
21. 以上で明らかなように、対立した意味で、「北」とは悪の源である偽り、悪によって起こされた偽りです。悪の源である偽りであるわけは、神的なものについて、詭弁的推論から生まれる偽りで、自然的人間が備える科学知をもとにして、神的なものに対抗します。それで、「北の民は、エジプトからくる」と言われます。「エジプト」がそのような科学知を意味することは、1164,1165,2588節を参照してください。
悪によって起こされる偽りであるわけは、見せかけの聖性をもつ外的信心から起こるからです。しかしその内部は冒涜的です。「バビロンからくる北の民族」とはそれです。「バビロン(バベル)」とは、そのような民族であることは、1182,1283,1295,1304,1306-1308,1321,1322,1326節を参照してください。「バビロン」は、荒廃をもたらします(1327節)。いずれにしても、悪の源になる偽りです。悪の源になる偽りを「ゴグ」に由来するものと言われます。なぜなら、「ゴグ」とは、内部の欠けた外部にある信心を指し、そこから偶像礼拝が生まれます。それはユダヤ人たちが全時代を通じて保持していたものです。ゴグがそのような性格であったことは、1151節を参照してください。
22. 自然的人間が備えている曖昧さから、真理が生まれることもありますが、偽りも生まれます。人が主のみ力によって、〈みことば〉を通して照らされるように忍ぶとき、曖昧さは輝くものとなり、内的道が開かれ、主のみ力によって、天界を通しての流入と交流が行われます。
それにたいし、主のみ力によって、〈みことば〉を通して、照らされるのを我慢できず、むしろ自分固有の理知で導かれようとするとき、曖昧さは暗闇となり、偽りになります。なぜなら、内的道は閉ざされ、主のみ力による天界を通しての流入や交流が存在しないからです。人は、悪や偽りをもとにして考えたり、話したりすることで、ただ外的形として、人間に見えるだけです。
したがって、前者の「北」は、真理であっても、後者は偽りを意味します。前者とは、曖昧さから上っている人々、光に上げられる人々であり、後者は、曖昧さから下ってくる人々、すなわち光から遠ざかる人々です。そのため、前者は南に向かい、後者は、タルタラに向かいます[訳注:(単数)、(複数)は、ともにギリシャ神話にでてくる地獄]。
23. 「北」は、偽りの暗闇を意味し、「南」は真理の光を意味します。それはダニエル書では、南の王と北の王との関係として、雄ヒツジと雄ヤギについて触れています。雄ヒツジと雄ヤギについては、次のようにあります。
「雄ヒツジは、西、北、南に向かって角を立てたが、これに当たり得る家畜は一頭もなかった。・・・一頭の雄ヤギが、全地のおもてを渡って西からきた。・・・その一つの角から角が出て、南に向かい、東に向かい、麗しの地に向かって、非常に大きくなった」(ダニエル 8:4,5,9)。
南の王と北の王については、「南の王」とは、真理の諸認識のうちにある人々を意味し、「北の王」とは、偽りの中にいる人々を指します。
「何年か経って、かれらは縁組をし、南の王の娘が北の王に来て、和睦(わぼく)をはかります。しかしその女は、その腕の力を保つことができません。・・・女の根から一つの芽が起こり、・・・北の王の城に討ち入り、・・・これを攻めて勝つでしょう。・・・捕虜をエジプトに携え去ります。・・・南の王は出てきて・・・北の王と戦います。・・・北の王は帰り、以前に増して、大軍を起すけれど、・・・多くの者が起こって、南の王に敵します。・・・北の王が来て・・・要塞の町を占領し、・・・多くを破壊します。・・・南の王も大軍をもって戦いますが、かれに陰謀をめぐらす者がいて、続きません。・・・その後自分の国に帰ります。・・・しかしこの時は、前のようではありません。・・・民の中の賢い人々は、自分たちの神を明確にします。・・・終わりの時になり、南の王はかれと戦いますが、北の王は、戦車と騎兵とをもって、つむじ風のように攻め、・・・麗しい国にはいり、多くの者が滅ぼされます。・・・しかし東と北からの知らせに驚かされ、大きな怒りをもって出て行きます。・・・かれはその終りにいたり、助ける者はありません」(ダニエル 11:1-以降)。
「南の王」とは、真理の光のうちにいる人々、「北の王」とは、最初は影の中にいて、やがて偽りの暗闇の中に入る人々であることは、上掲の一語一語から明らかです。
同時に、次第に倒錯していく教会の状態が描かれます。「南の王と北の王」と言われているのは、〈みことば〉の内的意味では、「王たち」とは、諸真理を意味し、反対の意味では、偽りを意味します(1672,2015,2069節)。また「王国」とは真理に属する事柄であり、反対の意味では、偽りに属する事柄を指します(1672,2547節)。