Des oeuvres de Swedenborg

 

白い馬 #1

Étudier ce passage

/ 17  
  

1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

/ 17  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.

Des oeuvres de Swedenborg

 

天界の秘義 #5215

Étudier ce passage

  
/ 10837  
  

5215. 「東風に焼けた」とは、情欲の充満を指します。「東風に焼けた」とは、情欲の火によって消耗したという意味があります。純粋の意味での「東風」や「東」は、主への愛と隣人への愛ですが(101,1250,3249,3708,3762節)、反対の意味では、自己愛と世間愛で、情欲と欲望です。情欲や欲望は、自己愛と世間愛の愛だからです。5071節で述べた理由から、それを修飾するのが「火」です。「焼けた」とは、そのような意味があります。

② 光に二種類の源があるように、熱にも、二種類の源があります。熱の源の一つは、この世の太陽からくるもので、もう一つの源は、天界の太陽からきます。それは主です。

この世では太陽が、自分の世界と、世界にある万物に、熱を注いでいることは、周知のとおりです。しかし天界の太陽が、全天界に熱を注いでいることは、それほど知られていません。人の内部には、この世の熱と共通点のない熱がありますが、それを反省してみただけでも、その存在が分かります。それは〈いのち〉の熱です。

そこで分かるのは、この熱が、この世の熱とは、別の素性のものであることです。〈いのち〉の熱は生きているのに、この世の熱は生きていません。前者は生きた熱で、人の内部にあります。人の意志と理性に火をつけ、願望することや、愛することや、感動することを可能にします。したがって、願望、愛、情愛は、霊的熱で、そのように呼ばれています。

極寒の中でも、熱によって、くまなく燃やされ生きる肉体からも、その存在が分かります。また願望や情愛が増大すれば、つまり愛が増大すれば、それだけ、身体が熱を帯びることからも明らかです。〈みことば〉で暑さ、火、炎というときの熱は、この熱のことです。純粋な意味では、天的愛、霊的愛のことです。その反対の意味では、物体的愛、地上の愛です。

したがって、ここでの「東風に焼ける」とは、欲望の火に燃え尽くされることを指していることが分かります。しかも「やせた穂」が演じている科学知を修飾する場合、欲望に満ちているという意味になります。

③ 「東風」すなわち東の風とは、欲望にかんすること、また幻想的なことがらを意味します。これは東風が登場する〈みことば〉の個所から分かります。ダビデの書にあります。

「(神は)諸天に東風を吹かせ、みずからの力によって、南風を起こされた。神はかれらの上に、肉を塵のように降らせ、翼ある鳥を、海の砂のように降らせられた」(詩篇 78:26,27)。

「その風がもたらした肉」とは、欲情を意味します。「翼あるトリ」とは、欲情由来の幻想を指します。モーセの書の民数記 11:31-35にあるように、肉を食べたため、民に禍が起こりました。その場所を「欲情の墓と呼んだ。欲情の民をそこに埋めたからである」とあります。

④ エゼキエル書には次のようにあります。

「見よ、植えられたブドウの木が栄えるであろうか。東風がこれに当たって、枯らしてしまわないだろうか。その育った苗床で枯れ果てないだろうか」(エゼキエル 17:10)。

同じく、

「ブドウの木は、怒りの中に引き抜かれた。東風がその実を枯らした。その強い幹は一つ残らず枯れ果て、火に焼き滅ぼされた。・・・火がその枝の幹から出て、その実を滅ぼしたので、支配者の杖になるような強い若枝はない」(エゼキエル 19:12,14)。

イザヤ書には次のようにあります。

「東風の日に、そのむごい風を思いやられた」(イザヤ 27:8)。

⑤ ホセア書には、次のようにあります。

「東風がやって来る。エホバの風が荒野から上ってくる。そのため水源は涸れ泉は干上がる。全貴重品の納められた宝庫がかすめられる」(ホセア 13:15)。

上掲でも、「東の風」すなわち東風とは、欲望にかかわる事柄です。エレミヤ書にもあります。

「わたしは東風のように、かれらをその敵前に散らす」(エレミヤ 18:17)。

⑥ ダビデの書には次のようにあります。

「あなたは東風によって、タルシシの舟を破られる」(詩篇 48:7)。

イザヤ書には次のようにあります。

「あなたは、あなたの民なるヤコブの家を捨てられた。かれらが東風で満ち、ペリシテ人のような占い者となったからである」(イザヤ 2:6)。

ホセア書には次のようにあります。

「エフライムは風を牧し、東風を追い、日々偽りと暴虐とを増し加える」(ホセア 12:1)。

「風」は、ここでは幻想を、「東風」は欲望を意味します。「東からの風」の場合も、内的意味上、同様です。その風で「イナゴが起こされ」、「イナゴは海に投げ込まれ」(出エジプト 10:13,19)、また「スフ海の水が分けられ」ました(出エジプト 14:21)。

  
/ 10837  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.

Des oeuvres de Swedenborg

 

天界の秘義 #3708

Étudier ce passage

  
/ 10837  
  

3708. 「海側(西)と、東とに広がり」とは、善が無限に拡大することを指します。「北と、南と」とは、真理の無限な拡大を示します。その結果、善と真理のあらゆる状態を指すことは、拡大を示す「広がる」の意味から明らかです。ここでは主に言及しているため、無限の拡大を意味します。

「海側」すなわち西とは、依然として曖昧な善、善のはじまりです。「東」は、明るい善であり、完成された善です。「北」は、依然として曖昧な状態の真理です。「南」は、光の中にある真理です。

② 〈みことば〉の多くの個所で、海側すなわち西、および東、北、南が登場します。これには個々全体にわたり、内的意味が存在するという事実は、人にはまだ知られていません。内的意味では、文字上意味する現世的なものでなく、霊的なものや天的なもの、最高の意味では、主ご自身の神的なものを表わします。

〈みことば〉で「西、東、北、南」が世界の方位であり、「四方に広がる」が数の増加としてしか理解されませんでしたが、以上は方位でも、特定国民の数の増加でもなく、善と真理の状態、その拡大です。それは〈みことば〉の多くの箇所、とりわけ預言書に記されている箇所から明らかです。西、東、北、南など、天界ではまったく知られていません。

天界における太陽は、主を表わし、日の出入りや、最高で昼間、最低で夜になるこの世の太陽とは違って、常時現れ、その光を受ける人々の状態に応じたものになります。つまりそこから出る光は、英知であり、理知です(1619-1632,2776,3138,3167,3190,3195,3222,3223,3339,3341,3485,3636,3643節)。したがって、各自の英知と理知の状態に呼応して、現れます。

善と真理のうちにある人々には、熱と光のうちにあり、天的な人や霊的な人には、日の出の時、または昼間の太陽として現れ、善と真理のうちにない人々には、日没または夜のときの太陽のようです。

③ したがって、「東、南、西、北」とは、〈みことば〉の内的意味で、善と真理の状態を意味します。ただ忘れてならないのは、〈みことば〉における善と真理の状態は、前述のように、方位で記述されるだけでなく、春、夏、秋、冬という季節すなわち一年の状態、朝、昼、夕、夜という時間帯すなわち一日の状態によっても、同じような理由から、記述されます。

特定の一語一語がどのような意味をもつかは、〈みことば〉にある個所によって、明らかになります。「東」は主を表わしますが、それは愛と仁愛の善が主によるものだからです。それは101,1250,3249.節で前述したとおりです。また「南」は、光の中での真理です(1458,3195節)。

④ 純粋な意味で、「西」とは何か、「北」とは何か、またその対立する意味は何かは次の箇所からわかります。イザヤ書には次のようにあります。

「恐れてはならない。わたしはあなたとともにいる。わたしは、あなたの子孫を東から来させ、西から集める。わたしは北に向かい、与えなさいと言い、南には、引き止めてはならないと言う。わが子らを遠くから来させ、わが娘らを地の果てから来させなさい」(イザヤ 43:5,6)。

上掲は、ヤコブとイスラエルである新しい霊的教会がテーマです。「子孫を東から来させ、西から集める」とは、善の中にいる人々を指します。「北に向かい、与えなさいと言い、南には、引き止めてはならないと言う」とは、真理の中にいる人々を指します。

⑤ ダビデの書には、次のようにあります。

「エホバにあがなわれた人々は言え。エホバは、かれらを敵の手からあがない、東、西、北、南の地からかれらを集められた。かれらは、人の行く道のない荒野にさまよい、住みつく町を見つけられなかった」(詩篇 107:2,3,4)。

上掲は、善と真理について無知な人々がテーマです。「東と西から」とは、善について無知な人々で、「北と南から」とは、真理について無知な人々です。「荒野にさまよう」とは、善にたいして無知な人々のことです。「行く道のない(道の孤立した中で)」とは、真理について無知な人々です。「住みつく町を見つけられなかった」とは、善と真理の両方について無知な人々です。「町」とは真理の教義事項です(402,2449,2943,3216節参照)。また「住みつくところ」とは、善についての修飾語です(2268,2451,2712節)。

⑥ イザヤ書には、次のようにあります。

「見よ、この人たちは遠くから来る。見よ、あの人たちは北から、西から、またスエネの地から来る」(イザヤ 49:12)。

「北」とは、真理の面で漠然としている人々、「西」とは、善の面で漠然としている人々です。「遠くから来る」とは、主に由来する光から縁遠いからです。⑦ アモス書には次のようにあります。

「見よ、わたしが飢饉をこの地にもたらす日が来る。・・・かれらは海から海へさまよい、エホバの言葉を求めて、北から東へと走りまわるが、これを見出せない」(アモス 8:11,12)。

「飢饉」とは、認識上の欠乏と欠陥を指します(1460,3364節)。「海から海へとさまよう」とは、認識が存在するところを探すことです。海とは、認識一般を指します(28,2850節)。「北から東へと走り回る」とは、光の中にある事柄にたいして、認識が曖昧であることを指します。「エホバの言葉を求めて・・・見出せない」とあるので、認識を指していることは明らかです。

⑧ エレミヤ書には次のようにあります。

「あなたは北に向かって、この言葉を叫びなさい。背信のイスラエル、帰りなさい。わたしは、わたしの顔をあなた方に向けて落とさない。わたしには、哀れみがある。・・・その日には、ユダの家はイスラエルの家に向かって行き、北の地から、わたしがあなた方の父祖に相続させた地に、いっしょに来る」(エレミヤ 3:12,18)。

上掲は、諸民族(異邦人)によって、教会が再建されることに言及しています。「北」とは、真理について無知でありながらも、善の〈いのち〉にある人々です。ここで意味しているのは、北でも北の地でもないことは、イスラエルがもう存在していなかった事実から、明らかです。

⑨ 同じく、次のようにあります。

「生けるエホバは、北の地からイスラエルの子らを上らせる」(エレミヤ 16:15)。

「北」とは、真理への無知を意味することは、以前と同様です。同じく、

「見よ、わたしはかれらを北の地から導き、かれらを地の果てから集める。かれらの中には、目や足の不自由な人がいる」(エレミヤ 31:8)。

「北の地」とは、真理について無知であるため、善についても無知であることを言います。「カナン」の地は、主のみ国を表象し、その結果、み国に由来する善を表わします(3705節参照)。その真中にあるのが「シオンとエルサレム」で、これは真理に結ばれた内奥の善です。したがって、それから隔たっている点、善と真理の面での曖昧さを表わします。漠然たる曖昧さの中にあるものは、すべて「北の地」また「地の果て」と言われます。

⑩ さらに、主からの光を伴う善の流入は、すべてその末端で、人の蒙昧さで終わっているため、北はまた「集会」とも言われます。イザヤ書には次のようにあります。

「あなたは、心のうちで言った。わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座そう、と」(イザヤ 14:13)。

同じく、

「門よ、嘆け。町よ、叫べ。ペリシテの全地は消えうせた。北から煙が来るからだ。その集会で孤立する者はいない」(イザヤ 14:31)。

ダビデの書には次のようにあります。

「大いなるエホバは、われらの神の都の中、その聖なる山で、大いにほめたたえられる。・・・シオンの山は、北の端にあって大王の都であり、全地のよろこびである」(詩篇 48:1,2)。

「天はあなたのもの、地もまたあなたのもの、あなたは世界とそれに満ちるものに基を置かれた。北と南はあなたが造られました」(詩篇 89:11,12)。

「北」とは、善と真理の光から比較的遠いところにいる人々を指し、「南

(右)」とは、比較的近くにいる人々を指します。主の右にいる人々については、1274,1276節を参照してください。

⑪ ゼカリヤ書には次のようにあります。

「わたしは、四両の戦車が、二つの青銅の山の間から出てくるのを見た。・・・赤、黒、白、まだらの強いものであった。・・・天使は言った。かれらは、全地の主のみ前に立って、そこから天の四つの風として出て行くものです。黒ウマを着けた戦車は北の地に出て行き、白ウマはそのあとを行き、まだらウマは南方の地に出て行きます。・・・北の地に向かって行く者は、北の地でわたしの霊を休ませます、と」(ゼカリヤ 6:1-8)。

「二つの青銅の山の間から出る戦車」とは、善にかんする教義を意味します。「戦車」とは、教義事項であることは、前にも触れました。「山」とは愛です(795,1430,2722節)。したがって、二つの山とあるのは、主への天的愛と、隣人への霊的愛を指します。「青銅」とは、自然性の中にある善を指します(425,1551節)。

「ウマ」とは、理知的なもの、さらに善にかんする教義の理解を意味します(2760-2762,3217節)。「南方の地」すなわち南とは、善と真理についての諸認識をもっている人々です(1458,3195節)。「北の地」とは、善と真理についての無知のうちにある人々です。しかし、心の正しい異邦人は、善の〈いのち〉のうちにあり、かれらのもとで新しい教会が再建されます。神の霊は、そこで休まれると言われます。

⑫ エレミヤ書には次のようにあります。

「エホバはイスラエルの家の子孫を、当地から北へと戻された。イスラエルを当地に住まわせるため、わたしが追放した全地から」(エレミヤ 23:8)。

「地から北へ」とは、善と真理についての無知による薄暗さからという意味です。同じく、

「北からくる鉄や青銅を砕くことができるだろうか」(エレミヤ 15:12)。

「鉄」とは、自然的真理です(425,426節)。「青銅」とは、自然的善です(425,1551節)。「北から」とは、自然性からという意味です。自然性は比較的曖昧で、境界線になるからです。このような預言は、言うまでもなく、鉄や青銅が北に由来すると言っているのではありません。鉄や青銅の意味が分かれば明らかで、神的なもの、先行・後続する何かを意味します。

⑬ マタイによる福音書には次のようにあります。

「あなた方に言う。多くの人が東からと西から来て、アブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席につく」(マタイ 8:11ルカ 13:29)。

「多くの人が東からと西から来る」とは、諸認識と善の〈いのち〉をもつ人々を指します。また曖昧さや無知の中にありながらも、教会の内外にいる人々です。東や西は、善の状態を意味することは、前述しました。「アブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席につく」とは、主とともにあることです(3305節)。同様に、東からと西から来る人とは、主のみ国、すなわち主の教会の中にあって、主のみそばにいる人々です。それは預言書にあります。イザヤ書には次のようにあります。

「わたしは、あなたの子孫を東から来させ、西からあなたを集める」(イザヤ 43:5)。

他の箇所では、「人々は西からエホバの名を恐れ、東からその栄光を恐れる」(イザヤ 59:19)。

また、「日の出る方から、また西の方から、人々がわたしの他に神のないことを知るようになる。わたしはエホバである、わたしの他にはない」(イザヤ 45:6)。

また、「わたしは北から起こして来させる。かれは日の出るところから、わが名を呼ぶであろう」(イザヤ 41:25)。

⑭ その他、東、西、南、北に、以上のような意味があることは、幕屋の建設、イスラエルの子らの宿営や出発、カナンの地についての描写、新しい神殿、新しいエルサレム、新しい地についての描写などから、明らかになります。

幕屋の建設ですが、幕屋にあるすべては、方位にしたがって整然となっていることは、出エジプト記第38章を参照してください。東と西の角、および南と北がどうなっていたかは、出エジプト記 26:18,20,22,27; 27:9,12,13を参照してください。また燭台が、机の位置から南方向の住居側にむかい、机は北側に位置していたことは、出エジプト記 26:35; 40:22を参照してください。

⑮ また「イスラエルの子らの宿営と出発」については、次のとおりです。これも方位に準じたもので、集会の天幕の周りに陣取り、東に向かって、ユダ族、イッサカル族、ゼブルン族、南に向かっては、ルベン族、シメオン族、ガド族、西にむかって、エフライム族、マナセ族、ベンヤミン族、北にむかって、ダン族、アセル族、ナフタリ族の順でした(民数記 2:1以降)。

またレビ族からは、ゲルション人は西に、コハテ人は南に、メラリ人は北に、モーセとアロンとアロンの子らは、東に向かった住居の前にいました(民数 3:23-38)。これは善と真理の状態に呼応して、主のみ国での天的秩序を表わします。そして、南に向けて出発の合図を鳴らし(民数 10:6)、宿営のときと同じようにして、出発しました(民数 2:34)。

⑯ 「カナンの地」については、最初モーセによって、周囲の境界線が描かれ、南の端、西の端、北の端、東の端が決まりました(民数 34:2-12)。そして各部族に籤(くじ)で分けられました(ヨシュア記第15-19章)。したがって、カナンの地に住んでいた最古代人たちに従い、方位に準じた位置、距離、境界に則っていて、場所はすべて表象と含意の対象になりました(1607,1866節)。

⑰ エゼキエル書にあるように、「新しい神殿、新しいエルサレム、新しい地」も、方位にしたがって記録されています。都の構造は南向きです。建物の門については、正面が東向き、北向き、南向きになっています(エゼキエル 40:2,6,19, 20-46)。

神殿の寸法は、入口が、「北と南に向いており」(41:11)。前庭は、北、東、南、西に向いています(42:1,4,11,16-19)。イスラエルの神エホバの栄光は、東の道から入ります(43:1,2,4)。前庭の門は、44:1,2,4; 46:1,9,10,19,20にあります。聖地の境界線は第47章にあり、北に向かう場合(第15-17節)、東に向かう場合(第18節)、南に向かう場合(第19節)、西に向かう場合(第20節)があります。各部族ごとに方位に従った嗣業があり(同第48章)、聖なるエルサレムの門にかんしては、東、北、南、西にあります(黙示録 21:13)。

以上から、この世にある四方位は、聖なるものに準じ、聖なるものを表象し、秩序づけられていることが明らかです。内的意味では、方位でなく、主のみ国における善と真理の状態を意味します。

⑱ 対立する意味では、北と西は偽りと悪を意味することは、次の箇所からも分かります。エレミヤ書には次のようにあります。

「エホバの言葉が再びわたしに臨んで言う。あなたは何を見るか、と。わたしは答えた。わたしは開いた鍋を見ます。その正面は北に向いています、と。エホバは言われた。災いが北から開き、地の住民すべてに臨む。見よ、わたしは北の家族をみんな来るように呼ぶ、と」(エレミヤ 1:13-15)。

同じく、

「シオンにむかって印を立てなさい。集合しなさい。じっとしてはいけない。わたしは、北から災いと大きな破滅をもたらすからである」(エレミヤ 4:6)。

同じく、

「見よ、ざわめきの声と大きな騒ぎが北の地から来る。これはユダの町々を荒廃させる」(エレミヤ 10:22)。

同じく、

「テコアでラッパを吹き鳴らせ。・・・北から災いと大きな破滅が来る。・・・見よ、民が北の地から来る。地の果てから、大きな民族が起こる」(エレミヤ 6:1,22)。

同じく、

「わたしは、エホバの手から杯を受け、すべての民族に飲ませた。・・・エルサレムとユダの町々とその王たち、・・・エジプトの王パロ、・・・西のすべての群集、・・・アラビヤのすべての王たち、荒野に住む西のすべての王たち、・・・北のすべての王たちの遠き者、近き者もすべてこの杯を飲む」(エレミヤ 25:17-26)。

⑲ 同じく、

「足速の者も逃げられず、勇士も逃げられない。北の方、ユフラテ川の岸でかれらはつまずき倒れた。あの川のようにわきあがるのはだれか。・・・エジプトはナイル川のようにわきあがり、・・・そして言う。わたしは上って、地をおおい、そこにいる住民を滅ぼそう。・・・その日は、大能の主エホビの日、報復の日である。・・・ユフラテ川のほとりで、北の地で、大能の主エホビにとっての犠牲があるためである。・・・エジプトは、最高に美しい雌の子ウシだ。しかし北から破滅がやってくる。・・・エジプトの娘は、辱められ、北の民の手に渡される」(エレミヤ 46:6-10,20,24)。

同じく、

「エホバはこう言われた。見よ、北から水が湧き上がり、川のようにあふれ流れ、この地と、そこにある町と住民のすべてにあふれる」(エレミヤ 47:2)。

⑳ 同じく、

「エホバがバビロンに対して言われた。・・・北から民族が起こって、その地を荒廃させ、そこに住む人もないようにする」(エレミヤ 50:1,3)。

同じく、

「見よ、わたしはバビロンに対して、北の地から大きな民族を集めてのぼらせる。かれらはこれに向かって前線を築き、攻略する。・・・見よ、北から民が来る。大いなる民族と多くの王が、地の果から立ち上がる」(エレミヤ 50:9,41)。

同じく、

「そのとき、天と地と、そこにあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。滅ぼす者が北から来るからである」(エレミヤ 51:48)。

エゼキエル書には次のようにあります。

「ゴグに言いなさい。・・・北の果てのあなたの所から、多くの民はあなたと共に来る。・・・あなたは、わが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地をおおう」(エゼキエル 38:14-16)。

同じく、

「将軍ゴグよ、見よ、わたしはあなたに対抗する。・・・わたしはあなたを引きもどし、六つに分割し、北の果てから上らせ、イスラエルの山々に導き、・・・あなたはイスラエルの山々に倒れ、・・・野の面に倒れる」(エゼキエル 39:1,2,4,5)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「エホバは言われる。北の地から逃れなさい。天の四方の風のように、わたしはあなた方を吹き散らす、と。シオンよ、逃げなさい。バビロンの娘といっしょに住み着いた者よ」(ゼカリヤ 2:6,7)。

21. 以上で明らかなように、対立した意味で、「北」とは悪の源である偽り、悪によって起こされた偽りです。悪の源である偽りであるわけは、神的なものについて、詭弁的推論から生まれる偽りで、自然的人間が備える科学知をもとにして、神的なものに対抗します。それで、「北の民は、エジプトからくる」と言われます。「エジプト」がそのような科学知を意味することは、1164,1165,2588節を参照してください。

悪によって起こされる偽りであるわけは、見せかけの聖性をもつ外的信心から起こるからです。しかしその内部は冒涜的です。「バビロンからくる北の民族」とはそれです。「バビロン(バベル)」とは、そのような民族であることは、1182,1283,1295,1304,1306-1308,1321,1322,1326節を参照してください。「バビロン」は、荒廃をもたらします(1327節)。いずれにしても、悪の源になる偽りです。悪の源になる偽りを「ゴグ」に由来するものと言われます。なぜなら、「ゴグ」とは、内部の欠けた外部にある信心を指し、そこから偶像礼拝が生まれます。それはユダヤ人たちが全時代を通じて保持していたものです。ゴグがそのような性格であったことは、1151節を参照してください。

22. 自然的人間が備えている曖昧さから、真理が生まれることもありますが、偽りも生まれます。人が主のみ力によって、〈みことば〉を通して照らされるように忍ぶとき、曖昧さは輝くものとなり、内的道が開かれ、主のみ力によって、天界を通しての流入と交流が行われます。

それにたいし、主のみ力によって、〈みことば〉を通して、照らされるのを我慢できず、むしろ自分固有の理知で導かれようとするとき、曖昧さは暗闇となり、偽りになります。なぜなら、内的道は閉ざされ、主のみ力による天界を通しての流入や交流が存在しないからです。人は、悪や偽りをもとにして考えたり、話したりすることで、ただ外的形として、人間に見えるだけです。

したがって、前者の「北」は、真理であっても、後者は偽りを意味します。前者とは、曖昧さから上っている人々、光に上げられる人々であり、後者は、曖昧さから下ってくる人々、すなわち光から遠ざかる人々です。そのため、前者は南に向かい、後者は、タルタラに向かいます[訳注:(単数)、(複数)は、ともにギリシャ神話にでてくる地獄]。

23. 「北」は、偽りの暗闇を意味し、「南」は真理の光を意味します。それはダニエル書では、南の王と北の王との関係として、雄ヒツジと雄ヤギについて触れています。雄ヒツジと雄ヤギについては、次のようにあります。

「雄ヒツジは、西、北、南に向かって角を立てたが、これに当たり得る家畜は一頭もなかった。・・・一頭の雄ヤギが、全地のおもてを渡って西からきた。・・・その一つの角から角が出て、南に向かい、東に向かい、麗しの地に向かって、非常に大きくなった」(ダニエル 8:4,5,9)。

南の王と北の王については、「南の王」とは、真理の諸認識のうちにある人々を意味し、「北の王」とは、偽りの中にいる人々を指します。

「何年か経って、かれらは縁組をし、南の王の娘が北の王に来て、和睦(わぼく)をはかります。しかしその女は、その腕の力を保つことができません。・・・女の根から一つの芽が起こり、・・・北の王の城に討ち入り、・・・これを攻めて勝つでしょう。・・・捕虜をエジプトに携え去ります。・・・南の王は出てきて・・・北の王と戦います。・・・北の王は帰り、以前に増して、大軍を起すけれど、・・・多くの者が起こって、南の王に敵します。・・・北の王が来て・・・要塞の町を占領し、・・・多くを破壊します。・・・南の王も大軍をもって戦いますが、かれに陰謀をめぐらす者がいて、続きません。・・・その後自分の国に帰ります。・・・しかしこの時は、前のようではありません。・・・民の中の賢い人々は、自分たちの神を明確にします。・・・終わりの時になり、南の王はかれと戦いますが、北の王は、戦車と騎兵とをもって、つむじ風のように攻め、・・・麗しい国にはいり、多くの者が滅ぼされます。・・・しかし東と北からの知らせに驚かされ、大きな怒りをもって出て行きます。・・・かれはその終りにいたり、助ける者はありません」(ダニエル 11:1-以降)。

「南の王」とは、真理の光のうちにいる人々、「北の王」とは、最初は影の中にいて、やがて偽りの暗闇の中に入る人々であることは、上掲の一語一語から明らかです。

同時に、次第に倒錯していく教会の状態が描かれます。「南の王と北の王」と言われているのは、〈みことば〉の内的意味では、「王たち」とは、諸真理を意味し、反対の意味では、偽りを意味します(1672,2015,2069節)。また「王国」とは真理に属する事柄であり、反対の意味では、偽りに属する事柄を指します(1672,2547節)。

  
/ 10837  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.