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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #5321

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5321. 「第二の車にかれを乗せ」とは、善と真理の全教義が、かれに依存するというしるしを指します。それは後述のように、「車」が善と真理の教義を指すものだからです。「だれかを車に乗せる」とは、当該の教義がその人に依存するとのしるしです。

このことは、前もってパロの言った「あなたは、わたしの家を治めなさい。わたしの民はみな、あなたの口に接吻するでしょう。あなたに優るのは、王位のあるわたしだけだ」(創世記 41:40)との言葉と関連があります。

善と真理の教義が、かれに依存するとは、次のとおりです。すなわち、「ヨセフ」は、主を表象しますが、それは霊的神性の面から見た場合です(3971,4669節)。これは、主の神人性に根ざす〈神の真理〉から見た場合でもあります(4723,4727節)。そして、〈霊的なものの天的なもの〉は、その〈神の真理〉に依存します。

善と真理のあらゆる教義は、〈神の真理〉から来ます。主こそ教義そのものだからであり、あらゆる教義は、主から発出するとともに、その教義は、主をテーマとするからです。

教義はすべて、愛の善と、信仰の真理をテーマとします。愛の善と信仰の真理は、主によるわけですから、主はその中に内在され、しかもその両方であられます。その結果、善と真理をテーマとする教義は、主おひとりをテーマにしており、しかもその発出源は、主の神人性であることが、明らかになります。

② どのような教義でも、神ご自身からきますが、これもかならず、神人性を通してなされます。これはつまり〈みことば〉です。〈みことば〉とは、最高の意味では、主の神人性に依存する〈神の真理〉です。〈神の真理〉は、神ご自身から、直接発出します。このことは、内奥天界における天使たちでも、理解できません。理由は、〈神の真理〉が無限であるためであり、こうしてあらゆる理解を越えるもの、天使の理解も越えるものだからです。

しかし、主の神人性から発出するものは、理解することができます。なぜなら、神人としての神を焦点に置いているからです。神人性の場合は、その人間性から、ある程度の概念を〈かたち〉作ることができます。主の人間性について形成された概念は、純真無垢の善からの流入があり、しかも仁愛の善のうちに浸っているかぎり、それがどのようなものかが受け入れられます。それは、ヨハネによる福音書の主の〈みことば〉が意味するところです。

「神を見た者は、まだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる方が、神をあらわした」(ヨハネ 1:18)。

同じく、

「あなた方は、まだ父のみ声を聞いたことがなく、そのみ姿を見たこともない」(ヨハネ 5:37)。

マタイによる福音書には次のようにあります。

「父を知る者は、子と、父を啓示しようとして、子が選んだ者の他は、だれもありません」(マタイ 11:27)。

③ 〈みことば〉の多くの個所で、車が登場します。しかし車が善と真理の教義事項、および教義事項にある科学知を意味するのを知っている人は、ほとんどいません。「車」が登場すると、自然的な歴史的物語としてしか考えず、霊的な概念が何一つ入ってこないからです。

「車の前を行くウマ」もそうです。「ウマ」とは、〈みことば〉では理知的なものを指しますから(2760-2762,3217節)、「車」というと、教義事項とその科学知を意味することになります。

④ 「車」とは、教会の教義事項であり、また科学知です。それはわたし自身、他生で、車を何度か目撃し、それが明らかです。また地界 の周辺右方にあるところでは、車とウマがいて、ウマ小屋が整然と並んでいます。そこでは、この世で教養人だった人たちが、散歩したり、談話したりしています。かれらにとって、生きるのは、そのような教養が目的でした。

かれらの目に、そのように見えたのは、比較的上位の諸天界にいる天使たちがきっかけになっています。天使たちが、理知的事柄や、教義事項とか、科学知などについて語ると、霊たちの目には、そのように見えます。

⑤ 車やウマには、そのような意味があります。その事実は、エリヤの話から実にはっきりと浮き彫りにされます。エリヤは、火の車と火のウマに乗って、天界へ向かう有様で見えました。エリヤもエリシャも、「イスラエルの車、その騎手」と呼ばれています。それについては、列王記下にあります。

「見よ、火の車と火のウマが、かれらをさえぎって現れた。エリヤはつむじ風とともに天にのぼった。エリシャはこれを見て叫んだ。わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と」(列王下 2:11,12)。

列王記下には、エリシャについて、次のようにあります。

「エリシャは、死にいたる病気にかかっていたとき、イスラエルの王ヨアシは、下ってきてかれの顔前で涙を流し、わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と言った」(列王下 13:14)。

エリヤも、エリシャも、〈みことば〉の主を表象しているため、そのように呼ばれました(創世記第18章序文、2762節,5247節終わり)。〈みことば〉それ自身は、善と真理の教義が中心になっています。教義はすべて、善と真理に由来するからです。それゆえ、エホバによって目が開かれた少年は、エリシャの周囲にあるものが見えました。

「山は、火のウマと火の車で、いっぱいに満ちていた」(列王下 6:17)。

「車」は、教義事項を示し、「ウマ」は、理知的なものを示します。これは〈みことば〉の他の個所からも、明らかです。

⑥ エゼキエル書には次のようにあります。

「あなた方は、わたしの食卓で、ウマと車、それに勇士と戦士のすべてを飽きるほど食べる。こうしてわたしは、わが栄光を諸民族に示す」(エゼキエル 39:20,21黙示録 19:18)。

以上は、主の到来をテーマにしています。上掲で、「ウマと車」とありますが、それは実際のウマや車のことでないことは、だれにでも明らかです。ウマや車を「主の食卓で、飽きるほど食べる」わけはないからです。ウマとか車が意味するもので、飽かされると言う意味です。それはすなわち、理知的なものであり、善と真理の教義事項です。

⑦ ウマや車は、次の引用個所でも、同じような意味をもっています。ダビデの書には次のようにあります。

「神の戦車は、幾千万もの平和部隊である。主はかれらの中におられ、シナイは聖所にある」(詩篇 68:17)。

同じく、

「エホバは、衣のように光をまとい、カーテンのように、諸天をひろげ、ご自分の高殿を水上で組み合わせ、ご自分の車として雲をたなびかせ、風の翼の上を歩かれる」(詩篇 104:2,3)。

イザヤ書には次のようにあります。

「海の荒野についての預言。・・・主は、わたしにこう言われた。見張りをする番人をおき、番人に報告させなさい、と。こうしてかれは、車と二人の騎手と、ロバの車とラクダの車を見た。かれは耳を傾けたが、それは注意深いものであった。見張りのライオンは叫んだ。主よ、わたしは昼間ずっと立っていました。わたしは毎夜、見張りをしていました。見よ、一人の男の車、二人の騎手がいた。・・・そしてバビロンは、滅びに滅んだと、かれは言った」(イザヤ 21:1,6-9)。

⑧ 同じく、次のようにあります。

「そのときかれらは、全民族の中にいるあなた方の兄弟みなを、エホバへの供え物として連れてくる。ウマ、車、籠、ラバ、飛車に乗って、わが聖なる山エルサレムへ連れてくる」(イザヤ 66:20)。

同じく、

「見よ、エホバは火の中に来られる。その車は、旋風のようだ」(イザヤ 66:15)。

ハバクク書には次のようにあります。

「エホバを憤らせたのは、もろもろの川でしょうか。あなたがご自身のウマに乗り、あなたの車が救いなのに、あなたは川に向かって怒られ、海に向かって立腹されるのですか」(ハバクク 3:8)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「目をあげて見た。すると見よ、四台の車が、二つの山の間から出てきた。その山は青銅の山であった。第一の車には赤ウマ、第二の車には黒ウマ、第三の車には白ウマ、第四の車には、斑(まだら)のウマが着いていた」(ゼカリヤ 6:1-3)。

⑨ エレミヤ書には次のようにあります。

「ダビデの王座に座する王たち、司たちは、車とウマに乗って、この町の門から入るであろう。王たちとその司、ユダの人、エルサレムの住人は、いつまでも、この町に住むであろう」(エレミヤ 17:25; 22:4)。

「エルサレム」とは、主の教会のことですから、「いつまでも住む町」とは、エルサレムのことではありません(402,2117,3654節)。「この町の門から入る王たち」とは、実際の王のことでなく、教会の諸真理を意味します(1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4966,5044,5068節)。「司たち」とは、司のことではなく、最優先の真理を意味します(1482,2089,5044節)。

「ダビデの王座にすわる人」とは、主から発出する神的諸真理です(5313節)。「車とウマに乗る騎手」は、その神的諸真理由来の理知的なもの、および教義事項を指します。〈みことば〉の歴史の中には、車がしばしば登場します。〈みことば〉の歴史すべては表象であり、単語は含意的ですから、主のみ国とか、教会に関係ある事柄を指すため、ここでの「車」にもそのような意味があります。

⑩ 〈みことば〉の中では、対立する意味で用いられている場合も多く、そのようなとき、「車」は、悪と偽りの教義事項、さらにそれを確証するような科学知を指します。例えば、イザヤ書には、次のようにあります。

「助けを求めてエジプトに下り、ウマに頼る者は、わざわいである。かれらは車の数の多さに信頼し、おびただしい数の強靭(きょうじん)な騎手たちに信頼する。しかしイスラエルの聖なる方を仰がない」(イザヤ 31:1)。

同じく、

「あなたは、あなたの召使の手を用いて、主を冒涜して言った。わたしは多くの車を率いて山々の頂に登り、レバノンの奥へ行き、背丈の高い糸スギと、良質のモミの木を切り倒そう、と」(イザヤ 37:24)。

上掲は、アッスリヤの王の将軍ラブシャケの傲慢な言葉にたいする預言的応えです。エレミヤ書には、次のようにあります。

「見よ、北方から水が上り、あふれる川となり、地とその富、町とその住民を水びたしにする。・・・地のすべての住民は、強者たちのウマのひずめの勝どきと、その車の轟音(ごうおん)と、その車輪のきしみ音で、嘆き悲しむであろう」(エレミヤ 47:2,3)。

⑪ エゼキエル書には次のようにあります。

「おびただしい数のウマで、その土煙があなたを覆う。騎手の勝どき、車輪と車の轟音で、あなたの石垣はゆらぐ。町の入口は壊され、門の中に入るからである。あなたの大通りはすべて、ウマのひずめで蹴散らされる」(エゼキエル 26:10,11)。

ハガイ書には次のようにあります。

「わたしは、国々の王座をくつがえし、諸民族の国々の力をつぶす。また車とそれに乗る者をくつがえし、ウマとその騎手たちは倒れる」(ハガイ 2:22)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「わたしは、エフライムから車を断ち、エルサレムからウマを無くし、戦いの弓を断ち切る。しかし諸民族への平和を語るであろう」(ゼカリヤ 9:10)。

エレミヤ書には次のようにあります。

「エジプトは、川のように上ってくる。その水は、河川のように揺れ動く。かれは言った。わたしは上っていき、地を覆い、町とその住民を滅ぼす。ウマは上って来い。車は狂うように走れ、と」(エレミヤ 46:8,9)。

⑫ 上掲での「ウマ」や「車」は、イスラエルの子らを追跡したエジプト人のウマと車です。そのウマと車を使って、パロはスフ海に入りましたが、そこで車輪が動かなくなりました。出エジプト記第14章の第6,7,9,17,23,25,26節、第15章第4、19節には、ウマと車がその記録の大部分を占めています。

これは、偽りの理知的なもの、教義事項、科学知と、教会の諸真理を転覆させ、消滅させるそれ由来の詭弁的推論を意味します。そのような事柄が殲滅(せんめつ)され、死んでいったことが、ここに記録されています。

  
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天界の秘義 #3993

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3993. 「その中からすべてぶちとまだらの家畜を移します」とは、「ぶちのもの」とは悪が混在するものであり、「まだらのもの」とは、偽りが混在するものですが、ラバンにあるそのような善と真理は、全部分離されるという意味です。

以上は、「移す」が分離するという意味になるからです。またここでは雌ヤギと子ヒツジを指す「家畜」は、善と真理を意味するためです(1824,3519節)。

さて、以上の部分と本章の後述の部分には、秘義が含まれています。ここに文字の上で現れる内容を越えた秘義がないなら、多くのことは、神の〈みことば〉の中に記録する値打ちがないはずです。

たとえば、ヤコブがぶちやまだらの雌ヤギや黒い子ヒツジを報酬として求めたこともそうです。ヤコブは、ハシバミやプラタナスの木の皮を剥いだ枝にある白い所を、水槽の中に、群れが熱くなったとき、ラバンの群れに向かって置いたことや、子ヒツジにかんしては、群れの顔をラバンの群れにあるしまのあるものと、黒いものとに向かわせたりしました。このようにして、善良なやり方でなく、悪い方法で富を得ました。

以上のようなことに神的なものは現れていません。しかし〈みことば〉は、その個々全体にわたり、一点一画まで神的です。もしその内容が人を救いと永遠の〈いのち〉に導くことを含んでいないなら、知っても役にたたないし、〈みことば〉が神的であると言っても、救いには役立ちません。

② 以上のことから、また他にもある同様のことから、だれもが結論として言えることは、ここに秘義が内在し、文字上の意味では違っても、内部にはいっそうの神聖なものが存在する事実です。内部にどのような意味があるかは、内的意味によらなければ、だれにも分かりません。つまり、天使たちがこれを、どのように感じ取っているかです。人は自然的な歴史の中にあるのにたいし、天使たちは、霊的意味のなかにあります。

両方の意味は、きわめて緊密に結ばれているにもかかわらず、お互いにどれほど隔たって見えるかは、後述の内容や、その他の事柄から、明白になります。ここにある秘義、および本章の後続部にある秘義は、以前、ラバンやヤコブについて述べたことから、ある程度知ることができます。つまり「ラバン」とは、純粋の諸善と諸真理が導入される手段となる善を意味し、「ヤコブ」は、真理の善を意味します。

しかしながら、霊的善に相応する自然的なものとは何か、知る人はわずかです。また霊的善とはどんなものか、そこに相応がなくてはならないなどを知る人は、いっそうわずかです。さらには、ある特定の善が、純粋の善や真理を導入するための手段に見える事実を知る人は、余計にわずかです。

だからこそ、以上に触れる上での秘義について説明するのは、容易ではありません。理性の陰に入ってしまい、他国語を話しているような感じになります。それについて、どれほど明確に説明しても、聞き手の理解を越えます。それがたとえ事実としても、〈みことば〉には、どのような内的意味が隠されているかを開き示すため、言わねばなりません。

③ ここでは最高の意味で、主ご自身の自然性が、どのようにして神化されたかをテーマにします。表象的な意味では、主がどのようにして人の自然性を再生させられるかをテーマにします。しかも主がどのようにして、人の自然性を人の準内部と相応させられるかです。人の準内部とは、肉体の死後生きる部分で、その際、人の霊と言われます。

人は肉体の絆から解放されると、骨や肉を除いた外部人間のすべてを伴っています。生前、時間の中に生きている間、人の内部が外部と相応関係をつくりあげていない場合、死後はもう手遅れです。内的意味におけるここでのテーマは、その両者が、主のみ力による再生によって、結び合わされることです。

④ これまでのテーマは、人の再生が可能になる前、人が受け入れ承認しなくてはならない共通の諸真理についてです。その諸真理とは、「レアと女奴隷から生まれたヤコブの十人の息子たち」です。その諸真理を受け入れ承認したあとの「ヨセフ」は、外部人間と準内部人間との結びつき、すなわち自然的人間と霊的人間との結びつきを意味します。

さて、順序から言えば、善の実りと真理の増加がテーマになり、これは結びつきが生まれるやいなや実現します。結びつきが緊密であればあるほど、それだけ実現も進みます。ヤコブが、ラバンのヒツジの群れを用いて、自分のため獲得したヒツジの群れがそれです。

〈みことば〉の他の箇所で何度もそうであったように、「ヒツジの群れ」は真理と善を意味します。また「ラバンのヒツジの群れ」は、前述のように、ラバンが表象する善がどのような性格かを示します。「ヤコブのヒツジの群れ」は、ラバンのヒツジの群れによって獲得した純粋な善と真理とを意味します。

⑤ それでは、純粋な善と真理を獲得するには、どうすればいいか、それについてここで記してみます。ただし、ぶちとは何か、まだらとは何か、黒とは何か、白とは何かについて、もし内的意味から知らなければ、決して分からないため、それについてここでまず触れておきます。ぶちや、まだらは、黒色や白色からできます。

「黒」はおおむね悪を意味します。とりわけ人のエゴです。エゴは悪以外の何ものでもないからです。「暗黒」は、偽りを意味し、とりわけ偽りの諸原理を指します。「白」の内的意味は、真理であり、固有の意味では、主の正義と功績を指し、それからくるものとして、人に備わる主の正義と功績です。この白色は、明白色とも言います。主のみ力による光によって輝くからです。

「白」はまた、反対の意味では、固有の正義、すなわち固有の功績 を示します。なぜなら、善の欠けた真理には、このような功績が付随しているからです。善を行っても、真理の善から行うのでない場合、つねに報われたいと思います。なぜなら、自分のために行っているからです。それに対し、善に根ざして真理を行うさい、その真理は、主からの光から照らしを受けます。こうして、「まだら」とは、偽りのまじった真理であり、「ぶち」とは、悪がまじった善であることが、明らかになります。

⑥ 来世でも、表現不可能ともいえる絢爛(けんらん)たる色彩が、実際に見えてきます(1053,1624節)。その色合いは、白と黒にあっての光と影の多様な調合から成り立っています。ただしその光は目前に現れるとはいえ、この世の光のようではありません。

天界における光は、その中に理知と英知を含んでいます。つまり主のみ力による神的理知が、天界では光として現れ、全天界を照らしています(2776,3138,3167,3190,3195,3222,3223,3225,3339-3341,3485,3636,3643,3862節)。また来世での陰は、陰として見えても、この世の陰とは異なります。天界での陰は、光の不在で、その結果、理知と英知の欠如になります。

さて、白と黒は、理知と英知を含む天界での光と、理知と英知の欠如である陰から成り立っています。したがって白と黒は、前述のようなものを意味することは明らかです。それで色とは、白と黒が土台になっている光と影の調合で、そこからくる多様性こそ、色彩と呼ばれます(1042,1043,1053節)。

⑦ 以上から、ぶち、すなわち斑点をもち、点で印され、黒と白で区別されているとは何か明らかです。つまり悪の混在する善を指します。同時に、まだらは、偽りの混在する真理を指します。それはラバンの善から、純粋な善と真理の導入を助けるため取られたものです。

しかしこの導入をどのようにして助けるかは、秘義に属します。前述のように、天界の光の中にいる人は、理知の中にるため、かれらの眼前では明瞭に映っていますが、この世の光の中にいる人々の眼前では、明瞭ではありません。再生して、この世の光が天界の光によって照らされている人は、別です。再生した人はみな、自分なりの自然的光明の中にあっても、天界の光によって、諸善と諸真理を見ています。なぜなら天界の光は、本人の視力を理知的にし、この世の光明は、本人の視力を自然的にするからです。

⑧ これがどんな様子かを簡単に述べておきます。人間には、純粋な善、すなわち悪が混在しない善は、与えられていないし、純粋な真理、すなわち偽りが混在しない真理は、与えられていません。人の意志は、悪以外の何ものでもありません。その悪から偽りが、本人の理性に絶えず流れ込んでいます。

なぜなら周知のとおり、人は、祖先が継続的に蓄積した悪を、遺伝的に引きずっているからです。その悪の蓄積から、人は実際に悪を生み出し、それを自分の悪にします。そして自分なりの悪を付加していきます。

ただし人がもっている諸悪には、各種各様のものがあります。善の混在をゆるさない悪があるとともに、善の混在をゆるす悪もあります。それは偽りについても同じです。そのようになっていなければ、人はだれも再生できません。

善や真理の混在をゆるさない悪や偽りとは、神への愛と、隣人への仁愛に反対するものです。憎しみ、復讐、残酷、自分に較べた他者への軽蔑です。また偽りの自己過信があります。善や真理の混在をゆるす悪や偽りは、神への愛と隣人への仁愛に反しないものです。例えば次の通りです。

⑨ だれかが他の人以上に自分を愛したとします。その愛がもとで、道徳的・社会的生活、科学や宗教の研究の中で、また地位名誉を得るため、また他の人以上の財産を築くため、ほかの人々より優れようと努力します。同時に神を認め、礼拝し、隣人への職務上の勤めを心から果たし、良心にしたがって正義と公正を行った場合、本人の自己愛にある悪には、善と真理が混在することが可能です。なぜなら、人のエゴでもある悪は、遺伝的に生まれついた悪で、もしそれを早めに取り除けば、本人の初期の〈いのち〉にある火を消し去ることができます。

しかし、人が他人以上に自分を愛し、その愛をもとにして他者を軽蔑し、自分を、崇拝に近いまでに敬わない者を憎み、そのため復讐や残酷な憎悪に喜びを感じるような場合、このような自己愛の悪には、善と真理が混在できません。まる反対だからです。

⑩ また一例をあげると、ある人が罪から清められたと信じたとします。水で汚れを洗ったように清められたと信じ、同時に償いを実行し、課せられた悔い改めの行いを果たし、罪の口頭告白のあと、聴罪師からの赦しを受け、聖餐式に通ったあと、新しい生活を送るようになった場合、その善と真理との情愛の中では、本人にある偽りは、善と混在できるようになります。しかしもし、以前同様の肉と現世の生活を送る場合、その偽りは、善の混在をゆるしません。

また人は善い意志からでなく、善い信仰によって救われると信じたとしても、善い意志をもち、善い行いをするなら、本人の偽りには、善と真理が添え結ばれることが可能です。しかし、善い意志をもたず、善い行いをしないなら、話は別です。

⑪ 人の死後のよみがえりを知らないか、復活を信じない人がいます。あるいは、知ってはいても、疑うか、否定に近い状態です。たとえそのようであっても、真理と善の中に生活した場合、善と真理が、本人の偽りと混在することが可能です。ところが、その偽りと悪の中に生きれば、本人の偽りに、善と真理が混在することはありません。正反対だからです。偽りは真理を破壊し、悪は善を壊してしまいます。

⑫ なお隣人、祖国、教会のための善益を目的にした真似事(まねごと) や策略 は、賢慮 になります。その中に混在する悪は、善と混在することが可能です。それは目的が善いからであり、目的のおかげです。ところが、真似事や策略が、悪事を目的にする場合、賢慮にはなりません。それこそ策謀 であり、騙し です。

このような騙しには、善はけっして結ばれることはできません。なぜなら騙しは、悪が目指す目的でもあり、人にある個々全体に、地獄を引き込むことになるからです。騙しは、悪を中心に据え、善を周辺に追いやります。その秩序は、地獄的秩序です。それ以外にも、無数に多くのことがあります。

⑬ 悪や偽りには、善や真理と結びつくものがあります。教義や教義項目の中に完全に異端的なものがたくさんありますが、どの異端教会に属する人の中にも、救われる人がいるのを見ても分かります。教会外の異教徒の中にも、主の教会が存在します。かれらは偽りの中にいても、仁愛の〈いのち〉をもって生きていれば、救われます(2589-2604節)。結局、悪には善と混在できるものがあり、偽りにも真理と混在できるものがあるからです。

善と混在できる悪にしても、真理と混在できる偽りにしても、主によって不思議にも秩序づけられています。ただし両者が結びつくことはないし、一体化することはなく、むしろ添え結ばれ、適応している状態です。中心に真理を伴った善が存在し、段階的にまわりの周辺に、悪や偽りが存在します。

以上は、その事実を示すものです。白と黒は、中央からの光が多様に変化しているように混在しています。これが天的秩序です。「ぶちとまだら」には、そのような内的意味が存在します。

  
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