解説

 

善と真理の結婚

作者: New Christian Bible Study Staff, Julian Duckworth (機械翻訳された 日本語)

善と真理の結婚は、善を求める私たちの願望と、善であるための方法を理解している私たちの間の結合と考えることができます。この関係は静的なものではなく、動的なものです。善は私たちを真理を探すように導き、真理は私たちの状態の変化とは無関係に立っているので、私たちはそれに対して自分自身を測定し、善として自分の人生にそれを適用することを決めることができます。このプロセスは、人間の再生の基礎となるものです。

子供の頃から、私たちは皆、自分の心と心の間で、比較的利己的なものと、自分が正しいと知っているより崇高なものとの間で葛藤しています。正しいと分かっていることをすればするほど,主はゆっくりと私たちの心を変え,利己主義を少しずつ取り除いていき,本当の愛が伝わってくるようにしてくださいます。これは生涯のプロセスですが、最終的には、正しいことをすることが本当に好きで、心と心が「結婚」して一体となって働くことができる状態に到達することができるのです。

被造物のすべては、この結婚の形をしています。人間社会においては、様々な形で存在することができます。一人一人の中に個別に存在することができます。夫と妻の間にも存在することができますが、それは、女性は善の欲求を受け取る賜物を持ち、男性は真理の理解を受け取る賜物を持っているからです。また、教会として人々の集まりによって形成されることもあります。また、花婿である主と花嫁である教会の間にも存在します。

聖書が結婚、結婚、結婚式について語るとき、聖書はまた、善と真理の霊的な結婚について、より深いレベルで語っています。

(参照: 天界の秘義2466; 結婚愛44 [6])

動画を再生する
This video is a product of the Swedenborg Foundation. Follow these links for further information and other videos: www.youtube.com/user/offTheLeftEye and www.swedenborg.com

スウェーデンボルグの著作から

 

結婚愛#44

この節の研究

  
/ 535に移動  
  

44. 第二のメモ

ある日、わたしは三人の新参の霊に会いました。かれらはこの世からやってきて、あちこちに行っては、見まわし尋ねていました。かれらが目を見はっていたのは、人間は以前と同じく生きつづけ、以前と同じものを見ているということでした。自分たちは、前世すなわち自然の世界を去ってやって来たことに気づいていましたし、最後の審判のときがくるまでは、生きかえらないと信じていたことも記憶にありました。最後の審判になって、墓に納まった骨と肉を身につけることになっていると思っていたわけです。

本当に人間なのかどうかの疑いを晴らすため、三人はかわるがわる見つめあい、おたがいに触れあい、また物をなでまわしたりしていましたが、何千という証拠で、自分たちが前世でいたときと同じように、今もなお人間であることが分かってきました。前世と違うところは、ずっと明るい光の中にあって、おたがいを見ているということ、ずっと優れた輝きをもって物体を眺めていること、つまりずっと完全に目撃しているということでした。

[2]. すると、二人の天使霊がそこにひょっこり出て来てひきとめ、「どちらからおいでですか」と尋ねました。かれらは「前世からやって来ました。そしてわたしたちは再びこの世界で生きているのです。一つの世界から、もう一つの世界に移住してきたということで、いま驚いています」と応えました。

それから三人の新参霊は、二人の天使霊にむかって、天界について尋ねました。三人の新参霊の中、二人は若者でした。そして二人の眼からは、異性にたいする欲望の炎のようなものがちらっと見えましたから、天使霊は、

「あなた方は女性にもお会いになれるでしょう」と言うと、「もう会いました」とかれらは応えます。天界についての質問には、こう言われました。

「天界では、すべてが壮大ですばらしく、目で見たことがないようなものばかりです。そこには、乙女たちと若者たちがいます。乙女たちは形容できないような美をまとっていますし、若者たちも形容できないほどの礼儀正しさ moralitas です。そして乙女たちの美と、若者たちの礼儀が、おたがいにマッチした〈かたち〉で、相応しています」と。

二人の新参霊は、天界には、自然の世界にあるのと全く同じような人間の〈かたち〉が存在するかどうか尋ねました。それに答えて、全く同じように存在すると言います。男性として何ひとつ欠けたところもないし、女性としても何ひとつ欠けたところもありません。

「一口に言えば、男は男、女は女です。創造されたままの完全性をすべてもっています。もしよければ、一歩さがってご自分を調べてみてください。以前同様の男性らしさに欠けたところは何もないはずです」と。

[3]。新参の霊は、また言いました。

「かつていた世界で耳にしたことですが、天使である以上、天界には結婚はないということですが。それでも性愛は存在するのですか」と。

天使霊は答えます。

「あなた方のもっている性愛は天界にはありません。しかし天使的な性愛は存在します。これは、欲望から挑発されるようなことが全くない純潔なものです」と。それにたいし新参霊は、

「挑発的なものが何もない性愛だとしたら、それはいったいどんな性愛ですか」と言います。そしてその愛の性格に思いをめぐらせながら、溜息をついて、

「天界のよろこびって、何とつまらないものだろう。それじゃあ若者は、天界をあこがれることなどあり得ませんね。そんな愛だとしたら不毛だし、〈いのち〉にも欠けるのではないですか」と言いました。それにたいして天使霊は笑いながらつけ加えました。

「天使の性愛とは、天界での性愛のことですが、それはそれは身にしみる喜びでいっぱいですよ。心にあるもの、それに胸にあるものすべてが、最高のうれしさで広がります。胸の内にあって心臓と肺臓がたわむれているようです。そのたわむれから呼吸と声の響きとコトバが出てきます。それがまた異性同士、若者と乙女のあいだの出会いを、天上の甘美な味わいに浸し、それこそ純粋です。

[4]。天界にはじめて昇っていく人たちは、純潔かどうか調べられます。

つまり天界の美とも言える乙女たちとの交際がゆるされ、乙女たちは、声色、コトバ使い、顔つき、眼つき、態度、発散する霊気などから、若者たちが性愛についてどんな性格をもっているか感じとるわけです。もし不純な人間であれば、身をそむけ、半人半獣の神サチルスや、男性生殖力の神プリアポスと見なします。なお新来の仲間たちも姿が変わって、天使たちの目には毛むくじゃらな男になり、両足はウシかヒョウのように見えます。それで天界の黄金がかれらの欲望で汚されないため、やがて放逐されることになります」と。

それを聞いて新参霊たちは言いました。

「それじゃ、天界には性愛は存在しないことになりますね。純潔な性愛とは、本来の〈いのち〉の本質を欠いた愛でしかありません。そこで若者と乙女がいっしょになったところで、ひからびた喜びしかないでしょうよ。わたしたちは石や丸太でなく、〈いのち〉をもった感知力と情愛の持ち主ですけれど」と。

[5]。それを聞いて、二人の天使霊はいきどおって応えました。

「あなた方は、ご自分がまだ純潔ではないので、純潔な性愛とは何かまったくご存じないようです。これは思いと望みの楽しさそのものです。肉的願望がその下にかくされているようなものではありません。天使的純潔は、男性にも女性にも共通で、心のトビラを乗り越えて迸り出ることはなく、むしろその内部あるいは上部で、若者の礼儀正しさと乙女の美が、純潔な性愛のよろこびをもって楽しく感じとられるようなものです。そのよろこびは、コトバで言い表わし得ないほどの内的豊かさを伴った愛らしいものです。しかもなお天使にはこのような結婚愛しかありませんから、このような性愛しかありません。そしてこの愛は、不純な性愛とは共存できません。本当の意味での結婚愛は純潔な愛であって、不純な愛と共通するものは何もないのです。他のあらゆるものを廃除して、それだけが性と一つになります。すなわち霊的愛があって、それに肉的愛が伴うわけで、肉的愛があってそれに霊的愛が伴うのではありません。つまり霊をかきみだす愛ではないということです」と。

[6]。これを聞いて、二人の新参の若者はうれしそうに言いました。

「天界にも性愛があるということですね。結婚愛もそれに準じたものなのでしょう」と。天使霊は、それに応えて言いました。

「もう少し徹底して考え、考察してみてください。あなた方の性愛は、結婚外の性愛であることを感じ取ってください。結婚愛とはそれと全く別です。それはちょうど小麦がそのモミガラとは違い、あるいは人間がケダモノとは違うように、これとそれとははっきり違っています。天界で女性にむかって、結婚外の愛とは何か尋ねてみると、きっと次のように言うと思います。

『何ですって。あなたは何をおっしゃいますか。そんなに人の耳を傷つけるコトバが、あなたの口から出てくるとは。創造されない愛が人の中に生まれてくることがあるでしょうか』と。

またあなたが、本当の意味での結婚愛とは何かお尋ねになるとすると、次のように答えることでしょう。『これは性愛ではありませんが、性から発するある人への愛です。その愛は、若者が主から自分のため供えられた乙女を見るときまた、乙女がその若者を見るとき以外には起こりえないものです。しかも両者とも、自分の心の中に結婚愛が燃えるのを感じ、かれは彼女が自分のための人であると感じるとともに、かの女はかれが自分のための人であると感じます。愛が愛を呼び起こし、愛が愛を分からせ、そこで二人の魂と、そのあと二人の精神を結びあわせ、それから胸に入り、結婚後はそれ以上に及んでいきます。愛はこのようにして、満ちたりたものになり、日々さらにその結びを強くし、もはや二人ではなく一人であるかのようになります。

[7]. わたしは、なおかの女たちが、それ以外の性愛を知らないと誓うと思います。つまり『このように相互的で、相補的な愛以外の性愛があり得るでしょうか。二人が一つの肉と化していくような永遠的一致を恋いこがれるものです』」と。天使霊はそれにつけ加えて、

「天界では、不倫 scortatio とは何のことかまったく知りません。その存在も、それがあり得ることも分かりません。天使たちは、不純な愛や、結婚外の愛を耳にしただけで、全身が凍りますが、その反対に純潔な愛すなわち結婚愛については、全身が熱を帯びてきます。天界では男性にとっては娼婦を見ただけで、全神経が冷え切りますが、妻の姿を見ただけで活力を覚えます」と言いました。

[8]。三人の新参霊はこれを聞いて、天界でも地上と同じように、夫婦のあいだの愛が存在するかどうか尋ねました。

二人の天使霊は、まったく同様に存在すると答えました。また天界では、末端の部分でも同じような喜びが存在するかどうか知りたがっているのを感じとって、まったく同様に存在するだけでなく、ずっと至福感を伴うものだと言います。

「なぜなら、天使の感知力や感覚は、人間の感知力や感覚に比べて、ずっときめ細かいものだからです。しかもその種の愛のもつ生命力は、性的能力の横溢です。これが衰える愛もまたおとろえ冷えきってきます。その能力こそ愛の度合を示すもの、段階そのもの、土台そのものです。あるいは出発点であり、強化であり、完成です。第一のものは、最終のものによって存在し始め、存続し、永続するものであることは普遍的法則です。したがってその最終の面でのよろこびがなければ結婚愛もないことになります」と。

[9]. 新参霊は、その愛の最終の面でのよろこびから、天界でも子供が生まれるかどうか、また子供を生まないのであれば、何のためにあるのか尋ねると、天使霊は、自然の子供ではないけれど、霊的子供たちが生まれると答えました。それで、

「霊的子供ですって」と聞きかえすと、かれらが答えて言うには、「夫婦は、その最終面でのよろこびをとおして、善と真理との結婚によって結ばれます。善と真理との結婚とは、愛と英知との結婚です。そしてこの結婚から生まれてくる子供たちとは、愛と英知です。夫は天界では英知であり、妻はその英知への愛です。そして双方とも霊的なものです。したがって天界でみごもり生まれるのは、霊的子供以外のなにものでもありません。天使たちはこのよろこびがあるゆえに、ときどき地上で起こるように悲愴になることがありません。むしろ快活になります。以前に加えて新鮮な力がたえず注がれますから、これは二人にとって回復であり照らしになります。このようにして天界に行く人はすべて自分の青春期にもどって行きます。その時代の活力をとりもどし、それが永久に続くのです」と。

[10]。三人の新参者たちはこれを聞いて、

「天界では、天使である以上、とつぐことはないと〈みことば〉にありますが」と言うと、天使霊は、

「天界を仰いでください。すると答えが与えられます」と言います。それではなぜ天界を仰ぐのですかと尋ねると、

「〈みことば〉の解釈は、すべて天界からわたしたちに与えられるからです。〈みことば〉は、徹頭徹尾、霊的なものです。そして天使たちは霊的な存在ですから、〈みことば〉の霊的な解釈をしてくれるでしょう」と。

それからしばらく待っていると、かれらの頭上で天界が開き、その面前に二人の天使が現れ、言いました。

「地上におけると同様、天界にも結婚があります。しかし善と真理との結婚の中にある人以外には、つまり天使たち以外にはその結婚はありません。そのように、霊的結婚とは善と真理との結婚であると天界では解釈されています。このような結婚は地上で与えられるものです。死んだのち、天界に入って与えられるわけではありません。婚礼に招かれた五人の愚かな乙女の話があります。かれらには、善と真理との結婚がなかったので入ることができませんでした。燭台はありましたが、油がありませんでした。油とは善であり、燭台とは真理です。婚礼が行われるとは、その結婚が行われる天界に入って行くことです」と。

三人の新参霊はこれを聞いてうれしくなりました。天界への願望に満たされ、そこで結婚する希望をもって言いました。

「そこで願いが満たされるため、自分の生活上の心と態度をきちんと整えるつもりです」と。

  
/ 535に移動  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.