ステップ _9713: It is a law of the Divine Providence that a person should not perceive and feel anything of the operation of the Divine Providence, but still that he should know and acknowledge it.

     

この節の研究

Question to Consider:

Can you think of a time when you felt you could see the Divine Providence "in the back," that is, after an event or series of events had occurred? What did you notice?


神の摂理#175

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作者: エマニュエル・スウェデンボルグ

175. 第八章 人は神のみ摂理のわざを感じとれなくても、それを知り認めるようになることは、神のみ摂理の法則である。

自然的人間は、神の摂理というものを信じません。ひとりで次のように考えます。「神の摂理っていったい何だろう。悪い奴が栄誉にあげられ、善人よりも財を築き、しかもいいことが次々に起こっている。神の摂理を信じている人よりも、信じていない人のほうがよっぽど得をしている」と。そればかりではありません。不信仰な者、不敬虔な者たちが、信仰者や敬虔な人にたいして、危害、損害、不幸をもたらし、ときには殺しまでやっていて、しかも悪意と策略をつかって、それを行っています。それで考えてしまいます。

「わたしはま昼間の光の中で、しかも経験で分かっているのですが、人は他人をうまくたぶらかして、誠意:公正に見せてはいますが、実際には悪辣な裏工作が、正直:正義をうわまわっているんじゃないでしょうか。神の摂理とは言うけれど、必要性から出ているもの、当然の結果として生まれたもの、それに運以外の何ものでもなく、神の摂理からは何も起こってきません。必要性こそ自然の法ですよ。その当然の結果として、自然的:社会的秩序から諸原因が生まれ、運は未知の原因からか、何の原因もないかのどちらかですよ」と。

以上のように、自然的人間はひとり考えます。事物の根拠は神にあるのでなく、万事自然にあると思っています。神に根拠を求めない以上、神の摂理にも根拠を求めません。神と神の摂理は同じだからです。

2. 霊的人間の場合は、ちがったふうに言ったり考えたりします。神の摂理がどんなに進んでいるかなど、考えてもぴんとこないし、肉眼でも見えませんが、それを知り認めています。見かけや記憶に付着した妄想は、人の理性をくらまします。そのように人を盲目にする妄想や、暗黒をもたらす虚構を打ち砕かないかぎり、理性は視力を回復しません。その虚構を打ち砕くには、その力が内在している真理によってしかできません。それでその偽りをあばいてみましょう。次の順序で、明らかにしていきます。

① もし人が、神のみ摂理のわざを感じとれるとすると、理にしたがって、自由にものごとを行うことができないし、見かけだけでも、自力でやることがなくなる。また万一、事の起こりを予知できるとすると同じようなことになる。

② もし人が、神のみ摂理を手にとるようはっきり見ることができたとすると、神の摂理的進展の順序維持に介入し、それをひっくりかえしたり、ダメにしたりする。

③ もし人が、神のみ摂理を手にとれるようにはっきり見ることができるとすると、神を否定するか、自分を神にするかしてしまう。

④ 神のみ摂理は背後から見ることができるが、正面のみ顔から見ることができない。背後から見るのも、霊的状態にあってできることで、自然的状態では見られない。