主の教義#12

作者: エマニュエル・スウェデンボルグ

この節の研究

  
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12.二 主がこの世に来られたのは地獄を征服し、人間性を栄化されるためであった。十字架の苦難は最後の戦いで、それによって地獄に勝ち、ご自分の人間性を完全に栄化されるためであった。

 主は死にうち勝たれました。それは地獄に勝ったということです。そのあと栄光を帯びて天界に上られました。以上は教会で周知のことですが、まだ知られていないことがあります。それは主が、戦いすなわち試練・誘惑をとおして、死すなわち地獄に勝たれたことです。それと同時にそれによってご自身の人間性を栄化されたことです。十字架の苦難は最後の戦いであり試練・誘惑でしたが、それによって勝利と栄光を得られました。

以上については、預言者の書やダビデの詩篇にいろいろ記していますが、福音書にはそれほどではありません。試練・誘惑は幼少のときからありましたが、福音書の記述では荒野における試練・誘惑、そのあと悪魔によるもの、そして最後にゲッセマネと十字架上での苦難に要約されています。荒野での誘惑、およびその後での悪魔による誘惑については、マタイによる福音書4:1-11マルコによる福音書1:1213ルカによる福音書4:1-13を参照してください。ただし以上は最終のものまでを含むすべての試練・誘惑のことです。それについては弟子たちにはそれ以上のことについては啓示されませんでした。イザヤにあります。

「かれは苦役を課せられて、口を開かず、屠られる子羊のようであり、毛を刈られるまえの羊のように黙していた」(イザヤ53:7)。

ゲッセマネにおける主の試練・誘惑については、マタイによる福音書26:36-44マルコによる福音書14:31-41ルカによる福音書22:39-46を参照のこと。十字架上の試練・誘惑についてはマタイによる福音書27:33-57マルコによる福音書15:22-38ルカによる福音書23:33-49ヨハネによる福音書19:17-37を参照のこと。試練・誘惑とは地獄に対抗する戦い以外のなにものでもありません。試練・誘惑すなわち主の戦いについては、ロンドン発行の小著『新エルサレムと天界の秘義』201、302、試練・誘惑一般については189-200を参照のこと。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.