解説

 

ヨハネ21章の意味を探る

作者: Ray and Star Silverman (機械翻訳された 日本語)

Photo by Quang Nguyen Vinh from Pexels

第二十一章


「わたしについてきなさい


1.これらのことの後、イエスはティベリヤの海で、弟子たちに再び御自分を現された:

2.シモン・ペテロと、ディディムスと呼ばれるトマスと、ガリラヤのカナのナタナエルと、ゼベダイの【子たち】と、ほかの二人の弟子とが一緒にいた。

3.シモン・ペテロは彼らに言った、「わたしは漁に出ます」。彼らは彼に言った,「わたしたちもあなたといっしょに行きます」。その夜、彼らは何も捕らなかった。

4.しかし、もう朝が来ると、イエスが岸に立たれた。

5.弟子たちは、それがイエスだとは知らなかった。弟子たちはイエスに答えた

6.イエスは彼らに言われた、「船の右側に網を投げなさい。すると、魚の多さに、網を引く力もなかった。

7.すると、イエスが愛しておられたあの弟子が、ペテロに言った。

前の章で、イエスは弟子たちに復活後の姿を二度見せられた。最初の出現で、イエスは弟子たちに "平安あれ "と挨拶された。そして、ご自分の名によって出て行くように弟子たちに命じ、こう言われた。"父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす"。弟子たちにこの先の仕事をさせるために、イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われた。もし、だれかの罪を赦すなら、その人は赦される。あなたがたが、だれかの罪を赦すなら、その罪は赦される。 ヨハネによる福音書20:19-23).

その8日後、イエスは2度目の出現で弟子たちを再び訪れ、"あなたがたに平和があるように "という挨拶を繰り返された。しかしこの時、イエスは復活を疑っていたトマスに直接話しかけられた。「イエスはトマスに言われた。そしてイエスはトマスに、ご自分の手と脇腹の傷を見せられた。トマスの霊的な目が開かれたので、彼は叫んだ。(ヨハネによる福音書20:28).

この最終章が始まると、イエスは「弟子たちに再び御自身を示された」(ヨハネによる福音書21:1). この復活後3回目の出現で、イエスはペテロ、トマス、ナタナエル、ヤコブ、ヨハネ、そして他の2人の弟子たちに御自身を示される。この7人の弟子たちは、もはやエルサレムにはいない。彼らは今、ティベリア海(ガリラヤ海の別名)に集まっている。ペテロが「私は漁に出る」と言うと、他の弟子たちもペテロに加わることにした。出て行って、すぐに舟に乗り込んだが、その晩は何も獲れなかった」(ヨハネによる福音書21:3).

弟子たちは一晩中働いたが、何もつかめなかった。これは、主の教えから離れて真理を見極めようとする私たちの無益な努力と、自分自身から愛を生み出せると信じることの無益さを表している。神の真理と愛から離れて、自己から労苦する限り、私たちの労苦は無駄になる。ヘブライ語の聖句にあるように、「主が家を建ててくださらなければ、労働者は無駄な労苦をする。主が町を守ってくださらなければ、見張り番は無駄に起きている。早起きし、夜更かしして、食べるために労苦するのも無駄である」(詩編127:1). イエスが告別の辞で言われたように、「わたしから離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネによる福音書15:5).

このような夜の状態は、私たちが無駄な労働をし、何も獲らないとき、神が私たちとともにいて、援助を与えようとしておられることに気づかないときを表している。朝が来て、イエスは岸辺に立たれたが、弟子たちは、それがイエスだとは知らなかった」(ヨハネによる福音書21:4).

弟子たちは、イエスが復活後3度目に現れたにもかかわらず、イエスを認識していない。イエスが「子供たち、何か食べ物はないか」と呼びかけても、彼らはまだイエスを認識していない。まるで見知らぬ人に話しかけるように、「ない」と言うだけだ。するとイエスは、"舟の右側に網を投げなさい。彼らがイエスの言うとおりにすると、網はいっぱいになった。そこで彼らは網を投げたが、魚がたくさんいたので、網を引き寄せることができなかった。 ヨハネによる福音書21:5-6).


The significance of "the right side"


弟子たちは、必要なものはすべて持っていると思っていたかもしれない。船も、網も、魚のいる海も。彼らは経験豊かな漁師でもあった。しかし、彼らの努力は無駄に終わった。同じように、私たちも必要なものはすべて持っていると思っている状況に直面するかもしれない。しかし、何かが欠けている。

船の左側から考え、行動している限り、神の導きや意志とは別に、自分の知識や経験、意志の力に頼ることになる。私たちは職業においても、私生活においても、かなりうまくやっているかもしれない。しかし、無駄な労苦を強いられる時が来る。頑なな態度が続いたり、忍耐を失ったり、人間関係の困難が解決されないままだったりする。

そんな時こそ、主の呼びかけに応えよう。"あなたの網を右側に投げなさい"。この新しい方向性は、私たちの人生の捉え方と生き方の転換を意味する。それは、神の助けを喜んで受けることから始まる。そうすることで、私たちは人生の自然的次元から霊的次元へとシフトする。自分自身や世に頼るのではなく、主とその御言葉に頼るのだ。これには、私たちが自由に主に立ち返り、主の御心を行うことができるように、自己の意志を横に置くことも含まれる。 1

私たちが自己の意志を捨て、御言葉にある主に自由に立ち返り、主の戒めを守り続けるにつれて、私たちの心の内部は開かれ、主の真理の数多くの応用が見られるようになる。霊的真理を私たちの生活にどのように適用するかについてのこれらの深い洞察は、主と隣人の両方に対する私たちの愛に比例して与えられる。ですから、私たちが舟の右側から、つまり主のいつくしみと真理から漁をするときはいつも、私たちの心は柔らかくなり、それまで見えなかったものが見えるように心が開かれるのです。そのため、必ず奇跡的な大漁がもたらされるのである。 2

大きな奇跡が起こったことを知ったヨハネは、ペテロに向かってこう言った。(ヨハネによる福音書21:7). ヨハネが突然、これは主がなさったことだと気づいたのは、主への愛が人間の心の内側を開くことを表している。私たちは突然、主があらゆる瞬間に私たちの人生に存在し、網を正しい側に投げるように、つまり、私たちが行うことすべてにおいて主の愛と知恵から来るように、優しく思い出させてくださっていることに気づく。

主が私たちを導き、導いてくださるときに、私たちの内面や他者との関係に不思議な変化が起こる。そのようなとき、私たちは詩篇の作者とともにこう言うことができる。私たちの目には驚くべきことです」(詩編118:23). 3


実践編


私たちは、物理的な世界と精神的な世界の2つの世界に生きている。物理的な世界と世俗的な知識だけに頼っていると、やがて無駄な労苦を強いられることになる。物理的な世界とそれが提供する情報だけでは、私たちの精神のより深い切望を満たすことはできないからだ。世俗的な成功や得た知識にもかかわらず、私たちは何かが欠けていると感じ続ける。無駄な労苦の長い夜が明けると、舟の右側に網を投げなさいという主の遠い呼びかけが聞こえるかもしれない。これは、自分自身の意志と理解に基づいて行動することをやめ、喜んで主に助けを求めるようにという呼びかけである。それは自然の次元から霊的な次元への転換である。実際の応用として、ボートの左側から釣りをしている瞬間を意識してください。立ち止まり、深呼吸をして、"左右を入れ替える "のだ。簡単な祈りでもいいし、聖句を思い浮かべるだけでもいい。そうすることで、あなたの内なる状態に明らかな変化が現れるだろう。あなたの気分、態度、声のトーン、行動において、このような奇跡的な変化に注意してください。ヨハネのように、"主です "と言えるようにしておくのだ。 4


"さあ、朝食を食べよう"


7. [続き]それから、シモン・ペテロは、主だと聞いて、裸だったので上着を着、海に身を投じた。

8.しかし、ほかの弟子たちは、陸から遠く離れてはいなかったので、舟に乗って来た

9.そして陸に降りるとすぐに、炭火が焚かれ、その上に小魚とパンが並べられているのを見た。

10.イエスは彼らに言われた、「今、あなたがたが捕った小魚を持って来なさい。

11.シモン・ペテロは上って行って、網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大漁であった。

12.イエスは彼らに言われた、「さあ、食事をしなさい」。弟子たちはだれも、主であることを知っていながら、あえて彼に、「あなたはだれですか」と尋ねなかった

13.イエスはおいでになって,パンを取り,彼らにお与えになり,小魚も同じようにお与えになった。

14.死からよみがえられたイエスが弟子たちに現されたのは、これがすでに三度目であった。

前のエピソードの終わりで、ヨハネは、イエスだけがこのような奇跡的な魚の捕獲をもたらすことができたと認識した。それゆえ、ヨハネは「主だ」と叫んだ(ヨハネによる福音書21:7). ペテロにとって、これはスリリングなニュースである。彼の即座の反応はこのように描写されている:「それから、ペテロは外衣を脱いで帯を締め、海に身を投げた」(ヨハネによる福音書21:7). 文字通りの意味では、ペテロは自分の外衣を自分の周りに締め付け、自分の衣服同士を結び付けて固定する役割を果たしているだけである。

より深いレベルでは、衣服の「帯を締める」ということは、主から流れ込んでくるものを受け取る準備として、自分の中に真理を注意深く整えることを表している。それゆえ、ペテロがまず身支度を整え、それからイエスに会うために熱心に海に飛び込むとき、それは主に会い、御心を行う準備が整った信仰を表している。ヘブライ語の聖句にあるように、「自分の道を正しく命じる者に、わたしは神の救いを示す」(詩編50:23). 5

弟子たちが岸に着くと、イエスがすでに朝食を用意してくださっていた。陸に上がると、そこに炭火があり、その上に魚とパンが並べられていた」(ヨハネによる福音書21:9). 彼らが到着すると、イエスは彼らに言われた。ヨハネによる福音書21:10). それに対してペテロは、「百五十三匹の大きな魚」でいっぱいになった網を岸に引き揚げる(ヨハネによる福音書21:11). この大漁は、主の愛を心に、隣人への慈愛を心に抱いてすべてのことを行う私たちの信仰の増殖と愛の拡大を象徴している。 6

そしてイエスは彼らに言われた、「さあ、朝食を食べなさい」(ヨハネによる福音書21:12). 注目すべきは、イエスがすでに朝食を用意しておられることだ。魚とパンはすでに熱い炭火で焼かれている。すべての真理と善の源であるイエスは、彼らが必要とするすべての真理と善を持っておられる。イエスが持っているのは、彼らが焼いたことのないパンであり、彼らが獲ったことのない魚である。パンはより深い愛を、魚は新しい真理を意味している。とはいえ、彼らは自分の役割を果たす必要がある。だからイエスは、彼らが持ってきたものを受け入れ、火の上に置く。 7

主の火に魚を捧げることは、私たちが主の御心を行おうと努力する中で受け取ったすべてのものに対する感謝の気持ちを、謙虚に主に捧げることを表している。そうするたびに、主は私たちの捧げ物を祝福し、主の愛の火で満たし、倍にして返してくださる。この聖なる火の前で、私たちは畏敬の念に満たされる。何年も前に敬虔な沈黙のうちに火の前に立った弟子たちのように、私たちは神が現存しておられることを実感する。弟子たちは誰ひとりとして、『あなたはどなたですか』と尋ねようとはしなかった。ヨハネによる福音書21:12). 彼らが敬虔な畏怖の念を抱いているとき、イエスは温かいパンと焼いた魚を差し出しながら彼らの前に現れた(参照)。 ヨハネによる福音書21:13).


"わたしの羊を養いなさい"


15.ヨナの子シモンよ,あなたはこれらの者よりもわたしを愛しているか.わたしがあなたを愛していることを、あなたはご存じです。わたしの子羊を養いなさい。

イエスが弟子たちに「さあ、朝食を食べよう」と招かれるのは、主が私たち一人ひとりに主から霊的な栄養を受けるよう招かれる様子を表している。しかし、霊的な食べ物は自分のためだけのものではなく、分かち合うものでもある。それゆえ、朝食の直後、イエスはペテロに向かって、この霊的な栄養を他の人々と分かち合うことについての重要な指示を出される。 8

イエスは指示を始めるとき、ペテロのことを「ヨナの子シモン」と呼んだ(ヨハネによる福音書21:15). これまでこの福音書では、「ヨナの子シモン」という名前が使われたのは、イエスが弟子たちを集め始め、イエスに従うよう呼びかけた第1章だけだった。その時、初めてペテロに会ったイエスは、「あなたはヨナの子シモンだ」と言われた(ヨハネによる福音書1:42). さて、この最後のエピソードで、イエスは再びペテロのことを "ヨナの子シモン "と呼んでいる。

ペテロの生まれながらの名前を使うことで、イエスは人を指導するように召されたすべての人の中にある特別な資質について語っているのである。すべての指導、とりわけ主の名による指導は、主への愛からなされなければならない。これが、「聞く」という意味のシモンと、愛、慈愛、善意の象徴である「鳩」を意味するヨナという複合名が意味するものである。この2つの象徴的な名前を合わせると、愛から主の言葉を聞き、実行することを意味する。私たちがこのような霊的成長の状態に達して初めて、他の人々に主について教える資格が与えられるのです。要するに、私たちは主への愛、つまり主の戒めを守ろうと努力するほどに成長し発展する愛からのみ、主について教えることができるのです。 9

ペテロを生まれつきの名前で呼ぶことで、この初期の記憶に触れた後、イエスは彼にこう言われる。文字どおりの物語の文脈では、イエスはペテロに、この世のものや感覚の快楽よりも高いものを求めるよう求めている。言い換えれば、イエスはペテロに、釣りをすることよりも、温かいパンを食べることよりも、焼いた魚を食べることよりも、ペテロを愛しているかどうかを問うているのだ。事実上、イエスはこう言っているのだ。「ペテロよ、これらの自然の楽しみよりも、わたしを愛しているか。これらのことよりも、わたしを愛しているか?" と言っているのだ。

個人レベルでは、イエスは私たち一人ひとりに同じような質問をしている。これらのことよりも、わたしを愛しているか。「霊的な生活よりも、自然な生活に注意を払っているか?「自分の自然な欲求を満たすことに忙しく、自分の霊を育てたり、人を助けたりする時間がほとんど残されていないのではないか?"自分の思い煩いにとらわれて、私があなたを通して働くことを忘れていないか?"「わたしを愛するよりも、この世のものを愛しているのか?つまり、主は私たちに、"これらのもの "よりも主を愛するように求めておられるのだ。主の声を聞き、主に従っていくことを求めておられるのだ。 10

イエスがペテロに、"ヨナの子シモン、あなたはこれらの者よりもわたしを愛しているか "と言われたとき、ペテロはこう答えた。ペテロは、"はい、主よ。"と答えた。そしてイエスは言われた。ヨハネによる福音書21:15). 聖典を通して、子羊や羊は主の声を聞き、主に従う者たちを指す。イエスはこの福音書の中で、「わたしの羊はわたしの声を聞き、わたしは彼らを知っている。ヨハネによる福音書10:27).” 同様に、主は私たち一人ひとりの名前を呼び、無垢な状態に触れ、優しい記憶を呼び覚まされる。これらの無垢な状態は、主によって私たちの中に保存され、私たちとともにとどまる。主は私たちの再生において、これらの状態を通して働きかけ、私たちが単なる自然な生活から霊的な生活へと移行できるようにしてくださる。 11

私たちを名前で呼ぶと、主は困難を乗り越えて私たちを運んでくださり、新たな信頼と感謝の状態で私たちを祝福してくださったときのことを思い起こさせる。私たちがこのような感謝の状態にあるとき、主が私たちにしてくださったこと、特に他人の親切を通してしてくださったことを思い出し、私たちは主を身近に感じ、主の御心を行ないたいと熱望する。このときこそ、主が私たちに、主の子羊たちに餌を与えるという任務を与えてくださるときなのだ。主は羊飼いのようにその群れを世話され、子羊を腕に集め、心に抱かれ、子を持つ者を優しく導かれる」(イザヤ書40:11). 12


実践編


私たちの中にある子羊のような状態とは、主に立ち返り、御心を行おうとする最初の意欲のことである。この欲求は、養われる必要のある無垢な状態である。実践的な応用として、あなたが敬虔な畏敬の念で満たされた時のことを思い出してください。おそらくそれは、あなたの霊魂が聖なる感覚に触れた時であろう。また、他者を通して主のいつくしみと真理があなたにもたらされた時かもしれない。親戚や友人、教師からの励ましの言葉かもしれない。困ったときに差し伸べられた助けの手かもしれない。もしかしたら、あなたを気遣ってくれた人に対する愛の感情だったかもしれない。あなたの優しい思い出が、主への愛と、他の人々に手を差し伸べたいという願望で満たされるようにしてください。あなたの中にあるこれらの優しい状態、つまり主が教えてくださることをしたいという無邪気な願望を養い、育ててください。そして、あなたの内にある主の愛から、他の人々を助け、指導するために手を差し伸べ、あなたの善意を行動に移しなさい。イエスが言われるように、"わたしの子羊を養いなさい"。 13


"わたしの羊を飼いなさい"


16.わたしがあなたを愛していることを、あなたはご存じです。わたしの羊を飼いなさい。

イエスはこの福音書の前半で、弟子たちがどのようにすればイエスへの愛を示すことができるかを説明された。わたしを愛しているなら、わたしの戒めを守りなさい」(ヨハネによる福音書14:15). そして今、イエスはこれに加えて、こう言われた。イエスは3年間、弟子たちを霊的に養ってこられた。イエスは弟子たちの戒めに対する理解を開かれただけでなく、ご自分が弟子たちを愛されたように、互いに愛し合うという新しい戒めもお与えになった(参照)。 ヨハネによる福音書13:34). 今、弟子たちは、自分たちが食べさせてもらったように、他の人たちにも食べさせる時が来た。このようにして、弟子たちは主への愛を示し続けるのだ。

ヨナの子シモン、わたしを愛しているか」。ペテロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはご存じでしょう」と言うと、イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。(ヨハネによる福音書21:16). ここで「飼いならす」という意味で使われているギリシャ語はポイマイン[Ποίμαινε]である。羊飼い」と訳されることもあるが、この言葉には養うこと以上の意味がある。保護し、導くことも含まれる。羊飼いが羊のためにすることすべてを含んでいる。この第二のステップで、イエスは単に "わたしの羊を養いなさい "と言われたのではない。"わたしの羊を飼いなさい "と言っているのだ。

これは、私たち一人ひとりの中で起こることに対応している。私たちが霊的に成長するにつれて、否定的な考えや邪悪な欲望は、主に従い、主の助けを求める私たちの意欲を攻撃し、破壊しようとする。したがって、私たちは内なる羊の羊飼いとなり、主が与えてくださる崇高な思いと愛に満ちた感情の群れを注意深く世話しなければならない。

これらの神から与えられた思考や感情は、霊的な捕食者から注意深く守られなければならない。聖書の時代、羊小屋は、羊を中に入れ、捕食者を入れないようにするために十分な高さのある石の囲いだった。羊小屋の石が狼から羊を守ったように、主の御言葉からの真理は、否定的な考えや邪悪な欲望から私たちを守ってくれる。十戒の聖なる真理が二枚の石の板に書かれたのはこのためである。 14

石に書かれた十戒は、主に何をしてはいけないか、つまりどのような悪を慎むべきかを教えていることは注目に値する。これは、主からの善が流れ込む前に、まず悪を避けなければならないと教える霊的な掟のためである。ヘブライ語の聖典にあるように、「悪を行うことをやめ、善を行うことを学びなさい」(イザヤ書1:16-17). 私たちが十戒に列挙されている悪を慎むとき、主が善を行う力と、その善がどのように行われるべきかについての洞察力をもって流れ込んでくる道が開かれる。 15

良い羊飼いは、主の御言葉から得た真理で主の羊を守るだけでなく、善を行う力を持った主が流れ込む道を開く手助けをする。主の愛が流れ込むとき、私たちは他の人々のために慈善的な行いをすること以上に望むことはない。 16

この点で、慈善的であることは、飢えた人々に食事を与えたり、ホームレスの人々を保護したり、病人を見舞ったりすることかもしれない。しかし、それだけにとどまらない。それは、私たちが考えるすべての愛に満ちた思い、私たちが言うすべての親切な言葉、私たちが行うすべての有益な行いも含まれる。これらの思い、言葉、行いが、私たちの内に、そして私たちを通して働いておられる主に由来するものであるとき、それはまさに慈善的なものである。このようにして、私たちは互いに良き羊飼いとなり、悪を行わないように励まし合い、善を行うことに忍耐強くなるように鼓舞し合うのです」。 17


"わたしの羊を養いなさい"


17.主は三度目に言われた、「ヨナの子シモンよ、わたしを愛しているか」主よ,あなたはすべてのことを知っておられます。主よ, あなたはすべてのことを知っておられ, わたしがあなたを愛していることを知っておられます.イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。

イエスがペテロに質問と指導を続けておられるとき、イエスは三度目に話しかけられた。主よ、あなたはすべてのことを知っておられます。主よ、あなたはすべてのことを知っておられます。それに対してイエスは言われた、「わたしの羊を養いなさい」(ヨハネによる福音書21:17).

霊的成長のこの段階で、私たちは主のいつくしみと憐れみを経験し始めた。主のいつくしみと憐れみを糧とし続けるにつれて、私たちの信仰は成長する。主の御言葉により多くの真理を見いだし、私たちの生活により多くの応用を見いだす。私たちが主によってどれほど変えられ、変えられたかを実感している今、私たちは自分が養われたように、他の人々を養うために出て行くことができる。わたしの羊を養いなさい」という主の言葉は、もはや命令や任務ではない。私たちの心の願いそのものなのだ。 18

イエスがご自分の羊に餌を与えることについて3回も語っていることは注目に値する。そしてそのたびに、イエスは "あなたがたはわたしを愛しているか?"という質問で、その勧めを先行している。すべては主への愛から始まるからである。これこそが、"主の子羊に餌を与える"、"主の羊の世話をする"、"主の羊に餌を与える "ための準備であり、備えなのだ。また、神から流れ込んでくるものを受け取る無邪気な子羊のような意欲と、他者に善を行おうとする誠実な願いがなければ、指導を受けることはできないということも付け加えておく。


Agápē と phileō


イエスが "ヨナの子シモン、わたしを愛しているか "と言われた最初の2回。彼はギリシャ語の動詞agapaō[ἀγαπάω] を使いました。agápēとしてより一般的に知られているように、これは不変であり、無条件であり、常に存在する愛である。それは他のあらゆる愛の形を超越している。

しかし、ペテロが答えるときには、"好きになる"、"愛情を持つ "という意味のphileō[φιλῶ]という言葉を使っている。神を至高に愛することと、単に神に愛情を持つことの違いは重要だ。この福音書全体を通して見てきたように、ペテロは、主を決して否定しないと宣言し、主とともに死んでも構わないと宣言するときのように、信仰の高さを表すこともある。一方、ペテロは、一晩に三度もイエスを否定したときのように、信仰の衰退を表すこともある。

これらの否定の時、ペテロは信仰が愛や慈しみから切り離された時の信仰の弱さを表している。愛の代わりにあるのは、単なる好意や愛情に過ぎない。信仰が、主に対する単なる愛情という不安定な土台の上に築かれているなら、それは崩れ去るだろう。困難な時代がやってくる。主に対する至高の愛と隣人に対する慈愛という以前の状態は、自己中心的な関心とこの世の心配事にますます焦点が当てられることによって、消え去ってしまうだろう。

そのことは、イエスが三度目に同じ質問をしたときのペテロの答えに表れている。イエスが三度目に『わたしを愛しているか』と言われたので、ペテロは悲しんだ。愛」という言葉は、愛から切り離された信仰、命から切り離された教義を象徴するペテロを悩ませている。主への愛と隣人への慈愛がなければ、信仰は存続できない。要するに、信仰が慈愛から切り離されるなら、信仰は滅びるのだ。 19


実践編


人生において、やらなければならないからやっていることについて考えてみよう。私たちはこれらを、責任、義務、責務と呼んでいる。例えば、泣いている子供をあやすために夜起きること、家事をすること、学校や職場に行くこと、会議で発表すること、隣人を助けること、あるいは御言葉を読むことなどです。これらのことをしなければならない」から「これらのことをしたい」になるには、あなたの思考、態度、行動にどのような変化が必要だろうか?私たちの霊的成長の旅路において、従順から主に従うことから、愛から主に従うことへと移行するとき、私たちは主のみこころを行わなければならない状態から、主のみこころを行うことを愛する状態へと移行する。この愛のレベルに達したとき、私たちは主の御心を体験しているのです。実践的な応用として、今度目の前にある仕事があるとき、通常なら "これをしなければならない "と言うところを、"これをすることになった "とか "これをしたい "と言ってみてください。すると、時間の経過とともに、"しなければならない "が "するようになる"、そして "したい "と変化していくのに気づくだろう。そうです、主よ、私は本当にあなたを愛しています


Beyond Belief


18.しかし、あなたが老いるとき、手を伸ばせば、他の者があなたに帯をかけ、あなたの意にそぐわないところに連れて行くであろう

19.かれは,凡てのことに就いて,凡てのことを御存知であられる。わたしはあなたがたのために,このようなことをしたのである。

20.よ,あなたを裏切るのはだれですか.

21.主よ,これは何ですか

イエスがペテロにパンと魚を食べさせ、神が私たちに善と真理を供給される方法を表しておられるように、イエスはペテロに、今度はご自分の子羊に餌を与え、ご自分の羊の世話をし、ご自分の羊に餌を与えるように促される。イエスはペテロへの指示を続けながら、こう言われる。ヨハネによる福音書21:18).

イエスはここで、ペテロと弟子たちがまだ若く、自分たちの使命に熱中していたころのことを指している。彼らはイエスのメッセージの奥深さをはっきりとは理解していなかったにもかかわらず、理想主義的で、イエスに従うことに興奮していた。トマスもペテロも、自分の死を覚悟してイエスに従うと告白した(参照)。 ヨハネによる福音書11:16 そして ヨハネによる福音書13:37). "主よ、私たちはあなたを愛しています。"ではなく、"主よ、私たちはあなたに愛情を抱いています。"と言っていた時代である。

イエスに対するこのような自己犠牲的な熱意と愛が、初代キリスト教会の急速な成長と拡大を引き起こしたのである。さらに、イエスの模範のおかげで、彼らは愛と奉仕が第一であることを知っていた。そのため、彼らは真理について争ったり、自分たちの間でいがみ合ったりすることはなかった。人々が良い生活を送っている限り、彼らは "兄弟 "とみなされた。彼らにとって、互いに慈愛に満ちた態度を保つことは、信仰の問題についての議論よりもはるかに重要だった。 20

この点で、初代教会には大きな自由があった。イエスの生涯と教えの記憶、そしてイエスへの熱烈な愛に支えられた彼らは、イエスから与えられた真理の生きた大使となった。イエスが宣教の初期に彼らに言われたように、「わたしの言葉にとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子となる。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネによる福音書8:31-32).

彼らの弟子としての始まりは、真理を学ぶことだった。「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはわたしの弟子となる」とイエスは言われた。それからしばらくして、イエスは愛について彼らに語られた。あなたがたが互いに愛し合うなら、このことによって、あなたがたはわたしの弟子であることが、だれにもわかるであろう」(ヨハネによる福音書13:35). そして、イエスは告別の辞の中で、今度は奉仕を強調しながら、どうすれば弟子になれるかというテーマに立ち戻られた。あなたがたが多くの実を結ぶことによって、わたしの父は栄光をお受けになる。ヨハネによる福音書15:8). 真理と愛と奉仕に留まることによって、彼らは本当にイエスの弟子になったことを証明するのだ。

これがすべての始まりだった。イエスが彼らの前におられたときもそうだった。しかしイエスは、これが簡単なことではないことも知っておられる。だから、イエスは今、ペテロにこう言われるのだ、「しかし、あなたが年をとったら、手を伸ばし、別の者が帯を締め、あなたが望まない所にあなたを運ぶであろう」(ヨハネによる福音書21:18). そして語り手は、イエスがペテロにこう言われたのは、ペテロの死に様について言及されたのだと付け加える。イエスは、どのような死によって、彼(ペテロ)が神に栄光を帰すかを示して、こう言われたのである」(ヨハネによる福音書21:19).

初代教会では、「両手を広げなさい」という言葉はしばしば十字架刑と結びつけられていた。従って、この言葉は、ペテロが殉教の死を遂げることを預言しているように思われる。特に、"別の者があなたがたに帯を締め、あなたがたの望まぬ所に運ばせる "という言葉が続くと、そうである。

かつてイエスのために死ぬと約束しながら、イエスを否定したペテロにとって、この予言はありがたく受け取られたことだろう。要するにイエスは、ペテロの信仰は最初は弱く揺らいでいたが、最後には堅固になると言っているのだ。ペテロはもはやイエスを否定しない。それどころか、勇敢にも殉教の死に立ち向かうだろう。こうして、ペテロは神を讃えることになる。

ペテロの成長は、恐れから信仰へと移行するすべての人の模範となる。イエスの教えへの信仰とイエスへの愛が結び付き、神への揺るぎない信頼、神の導きへの信頼、そしてあらゆる試練や試練を乗り越えて神に従おうとする意志が生まれるとき、人の魂の中で何かが起こる。ペテロの死を予言した直後、イエスが "わたしについてきなさい "と言われたのはこのためである。それはあたかも、イエスがペテロに向かって、"将来あなたに何が待ち受けていようと、たとえそれが殉教者の死であろうと、私についてきなさい"と言っているかのようだ。


さらに深く


ペテロのように、私たち一人ひとりも、日々自分の十字架を背負ってイエスに従うように召されている。言い換えれば、私たち一人一人は、利己的な生活を捨て、他者への無私の奉仕の生活を新たに始めるように召されているのです。私たち一人ひとりは、自分の理解をより高貴なものへと高めるよう召されている。私たち一人ひとりが、古い意志と低次の本性の欲望から立ち上がり、神から与えられた欲望とともに新しい意志が私たちの中に生まれるようにと召されているのだ。そうすることで、私たち一人ひとりが、神に栄光を帰すような人生へと召されるのです。

この霊的な再生のプロセスは、まず悔い改めによって行われ、次に神の真理によって「身を固める」ことによって行われる。そうすることで、神の御言葉の教えを心にまとい、私たちを自由にする真理に生きるのだ。私たちは "望むところを歩んでいる "のだ。

しかし、時が経つにつれて、こうした高次の状態から遠ざかってしまうことがある。そうなると、私たちはもはや主に自由に導かれることを望まなくなる。その代わりに、私たちは自分自身を支配し、神の秩序の法則から離れて自分の望むことをすることを好むようになる。このような状態になると、私たちは「自由」になったと感じるかもしれないが、実際には私たちは低次の本性の奴隷になっている。

神を愛し、隣人を愛するという真理に対して霊的に盲目になっている私たちは、霊的な束縛の中にいることに気づく。この自らに課した盲目の中で、私たちは手を伸ばして低次の本性の欲望に身を包み、高次の本性が行かないような場所に運ばれていく。この預言をより深いレベルで読み進めていくと、イエスの言葉が、私たちがいかに本来の希望、夢、ビジョンを見失ってしまうかについて、私たち一人一人に語りかけていることがわかる。イエスがペテロに言われたように、「年老いたとき、あなたは手を伸ばし、他の者が帯を締め、あなたが望まないところに運ばれる」(ヨハネによる福音書21:18). 21

この預言は、教会の盛衰にも当てはめることができる。教会が始まったばかりの頃は、メンバーは主に従い、互いに愛し合うことに興奮している。しかし、時が経つにつれて、人々を互いにより大きな愛へと導くはずだった同じ教義が、人々を分裂させるような形で再解釈されたり、過度に強調されたりするようになる。かつては互いに愛し合い、尊敬し合う人々で満たされていた教会が、激しい論争や意見の対立の場になりかねないのだ。何が起こったのか?何が間違っていたのか? 22

イエスによれば、「私は神を信じる」と言うことが、神の教えに従って生きることよりも重要になると、このようなことが起こるのだという。信仰」さえあればいい、と戒めを軽視するときだ。主に立ち返り、日々の実践として主の戒めに従うのではなく、人々は自分自身の見解、つまり努力なしに信仰を正当化し、悔い改めや改革なしに再生を正当化する見解に目を向ける。

信仰が慈愛よりも、教義が人生よりも重要視されるようになると、「正しい」ことが偽りの神となる。そうなると、不平、批判、非難が横行するようになる。こうして、結婚は破綻し、友情は解消し、政府は二極化し、教会組織は信仰のみに衰退する。 23

悲しいことに、ペテロは、神の物語の中で、この信仰の衰退を象徴している。イエスが彼に「わたしについてきなさい」と言われたとき(ヨハネによる福音書21:19), ペテロは "はい、主よ、あなたに従います "とは言わない。その代わりに、ペテロは振り返ってヨハネを見て言った。ヨハネによる福音書21:21). 24

ペテロのヨハネに対する質問は、通常、"この人はどうなのか?"と訳されているが、原語のギリシャ語では、単にti houtos[τί οὗτος] であり、"これは何なのか?"という意味である。この質問をすることによって、ペテロは主から離れるだけでなく、親しい伴侶であるはずのヨハネからも距離を置くことになる。聖典の言葉を借りれば、信仰は慈愛から離れているのである。

この文脈において、ペテロの信仰は福音書の物語を通して一貫していないことを忘れてはならない。ペテロはイエスがキリストであることを告白した最初の人物であったが、同時にイエスを否定した最初の人物でもあり、それを三度も行った。そしてこの最終回でも、ペテロは同じようなことをしている。彼はイエスを愛していると三度も言ったばかりだ。しかし今、イエスが彼に「わたしについてきなさい」と言うと、ペテロは反対のことをする。振り向いてしまうのだ。

これは戒めの物語である。たとえ強い信仰を持っていても、そこで立ち止まることはできない。イエスをキリスト、生ける神の御子と信じる最初の信仰体験は、トマスが「わが主、わが神」と言ったときのような信仰になるまで進歩し、成長しなければならないのだ(ヨハネによる福音書20:28). そして、まだもう一段階ある。それは、もはやすべての重要な質問が、"あなたは私を誰だと言うのか?"や "あなたは私を信じるのか?"ではなくなるときである。すべての重要な質問は、"あなたは私を愛しているか?"である。真の信仰は、主への愛に起源を持ち、他者への有益な奉仕のうちに表現されなければならない。


実践的な応用例


愛から主のみこころを行ない続けるにつれて、真理を学ぶ愛情と、その真理を行動に移そうとする願望は、ますます大きくなっていくだろう。年齢に関係なく、あなたはより強く、より平安に、より幸福な精神に成長し続けるでしょう。実践的な応用として、あなたの信仰を新鮮で生き生きとしたものに保ちなさい。新しい洞察と愛に満ちた行動で、信仰に栄養を与えてください。内なる子羊に餌を与えなさい。内なる羊の世話をしなさい。そうすれば、自己中心的な気持ちがおさまり、主の望みがあなたの心を満たすにつれて、平安と幸福がもたらされるのを楽しむことができる。あなたの喜びがどのように増大し続けるかに気づいてください。善と真理に満ちた、より天国的な状態に入るにつれて、霊的に生き生きとし、喜びに満ち、心が若いとはどういうことかを発見してください。ヘブライ語の聖典に書かれているように、「あなたは私に人生の道を示してくださいます。あなたの御前には喜びが満ちます。あなたの右の手には、永遠の楽しみがあります」(詩編16:11). 25


イエスが来られるまで


22.イエスは彼に言われた,「わたしが来るまで,その人がとどまっていることをわたしが望むなら,あなたがたはどうするのか。わたしに従いなさい。

23.イエスはペテロに言われた, 「わたしが来るまで, その弟子がとどまっているようにとわたしが望むなら, あなたにとって何の益があろうか.

イエスはペテロに「わたしについてきなさい」と言われたばかりだ。それで十分だったはずだ。しかし、この単純な要求だけではペテロには十分ではなかった。彼はまた、名前さえも挙げていないヨハネのことも知りたがっている。「しかし、主よ、"これは何ですか?"とペテロは言う。ペテロの憤慨した口調は、信仰と慈愛の分離を暗示している。この分離は、やがて教会に、そして信仰と慈愛を思考、言葉、行いの中で分離するすべての人々に大きな損害をもたらすだろう。 26

福音書の物語を通して見てきたように、ペテロは信仰を、ヨハネは慈愛を、特に慈愛の業を表している。ヨハネがそうであるように、イエスに従うということは、イエスに全力を注いで愛することである。つまり、私たちはイエスの導きを信頼するだけでなく、イエスがすべての愛、知恵、力の源であると信じ、イエスに頼るのである。しかし、それだけではない。イエスが告別の辞で言われたように、「わたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい」(ヨハネによる福音書14:15). そしてまた数節後、主は別の言葉を用いてこの勧告を繰り返される。「だれでもわたしを愛するなら、わたしのことばを守る」(ヨハネによる福音書14:23).

これがイエスに従うということだ。簡単に言えば、イエスを信じ、イエスの言うことを実行することである。しかし、私たちの生活の信じる側面を意味するペテロは、真の信仰の上昇と衰退の両方を象徴している。信仰は、それが慈愛と、特に慈愛の業と結びついている限りにおいて上昇する。しかし、信仰が善や慈しみよりも優先され、第一義的なものとみなされるとき、信仰はまず衰退し始める。そして、生活の善から離れるとき、つまり、真理が教えることに従って生きなくなるとき、信仰はさらに衰退する。そして最後に、信仰が善行を軽蔑し、天国への道を得るためのむなしい試みと見なすとき、信仰は最終的かつ最も深刻な衰退を経験する。

イエスはペテロの反応に驚かれない。救いに必要なのは信仰だけだと人々が信じる時が来ることを予見しておられるのだ。そのとき、人々は善を行おうとする努力はすべて、必ず自利の罪に染まると信じ、善を行おうとする努力を軽んじるだろう。だからペテロは、善い行いの代表であるヨハネに対して、"これは何ですか "と軽蔑的な言葉を口にするのだ。それに対してイエスはペテロに言う。"わたしが来るまで、彼がとどまっているようにと、わたしが望むなら、それはあなたにとって何なのか。"(ヨハネによる福音書21:22). イエスは続けて言われた。 27

イエスはすでにペテロに、ご自身に従うように言われた。 ヨハネによる福音書21:19). イエスは再びペテロに、イエスに従いなさいと言っているのだと思うかもしれない。しかし、今回はヨハネに向けた言葉である。これは、信仰を代表するペテロと、慈善的な行動を代表するヨハネが、ともにイエスに従うべきだという考えを表している。そうすれば、信仰と有益な奉仕、すなわち真理と善が一体となって働くことになる。私たちの人間性の両方の側面に、同じ呼びかけが与えられている:"わたしについてきなさい"。 28


主の再臨


このエピソードにおいて、イエスの結びの言葉はこうである。わたしについてきなさい。最も文字通りのレベルで、イエスは、他の人が何をしていようとも、イエスに従うことの重要性を語っている。主が私たちを通して働けるように、主の導きに心を開いているよう求めておられるのだ。

この結びの言葉の中で、イエスは約束された再臨についても語っておられる。イエスが告別の辞で弟子たちに言われたように、「わたしは、あなたがたを孤児にしておかない。ヨハネによる福音書14:18). 十字架につけられてから3日後、イエスは約束を守られた。イエスは彼らのもとに戻って息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」(ヨハネによる福音書20:22). それから8日後、イエスは再び彼らのもとに来られた。イエスは彼らのもとに来られるたびに、彼らに理解を深め、イエスへの愛を深める機会を与えられた。

これらはすべて、イエスが私たち一人ひとりの人生にどのように現れてくださるかを象徴している。最初の来臨において、イエスは肉体をもって来られた。言は肉となって、私たちの間に住まわれた」と書かれているように(ヨハネによる福音書1:14). これは、神が地上におられる間、私たちの間を歩き、語られたときの、神についての私たちの最初の理解を表している。しかし、主の再臨は霊的なものだ。それは、私たちが御言葉の中で主の声を聞いたり、聖霊を通して主の神聖な導きを感じたり、何らかの形の有益な奉仕の中で主の愛と知恵を組み合わせたりするたびに起こる。要するに、肉において一度来られた主は、霊において永続的に私たちのもとに来られるのである。 29


最初と最後の言葉


24.この弟子こそ、これらのことを証言し、これらのことを書いている者である。

25.わたしたちは,その証言が真実であることを知っているのである。アーメン。

ルカによる福音書の最後に、イエスが弟子たちにエルサレムの町にとどまるように、あるいは "留まる "ように言われたことを述べた。その福音の文脈では、弟子たちが洞察と霊感と「高きところからの力」を受けるまで、聖典の真理の中に留まり、神の御言葉を考察し、黙想することを意味していると理解した(ルカによる福音書24:49). 30

さて、ヨハネによる福音書の終わりに近づくにつれ、イエスは再び、留まること、あるいは残ることについて語られる。イエスはペテロにこう言われた。"わたしが来るまで、彼(ヨハネ)がとどまっていることをわたしが望むなら、それはあなたがたにとって何なのか。"しかし、この時イエスは、弟子たちが他の人々を愛し、仕え続けることを意味している。彼らは主の御言葉を守り続け、良い行いをし続け、他の人々を指導し続けるべきである。これらのことはすべて、イエスが来られるまで "留まる "弟子ヨハネによって示されている。

この状態にとどまり、善い行いを続けることによって、弟子たちは生前も死後も主の近くにとどまり、主のみこころを行いつつ、他の人々にも同じように教えることができる。その結果、彼らは真のキリスト教会を最初に設立することになる。しかし、時が経つにつれて、教義が次第に生活よりも重視されるようになり、教会は衰退し、没落し始める。 31

その新しい信仰がどのように生まれ、そして衰退していくかの詳細は、まず使徒言行録と使徒書簡に記され、その後、霊的な意味を持つ黙示録(「七つの封印で封印された」書物)が開かれることによって明らかにされる(ヨハネの黙示録5:1). 黙示録の冒頭で、イエスはエペソの教会に向かって、「あなたがたは初めの愛を捨てた」(ヨハネの黙示録2:4). イエスが語る「第一の愛」とは、教義の真理だけでなく、人生の善に最高の焦点を当てることである。 32

しかし、それはまた別の物語であり、別の機会に語られる。この4つの福音書の物語は、今終わろうとしている。これまで見てきたように、マタイによる福音書は「ダビデの子、アブラハムの子イエス・キリストの世代の書」という言葉で始まった(マタイによる福音書1:1). その時、私たちは "書物 "がその人の最も内面的な性質を表していると指摘した。そして、マタイによる福音書は、イエスの最も内的な性質-神性-が徐々に啓示されていく物語なのである。この福音書でイエスが言うように、「あなたがたは、わたしを誰だと言うのか」(マタイによる福音書16:15). 33

このテーマは福音書全体を通して続き、マルコの最初の節で再び取り上げられるが、そこではイエスはもはやダビデの子ともアブラハムの子とも表現されず、むしろ神の子と表現されている。どの福音書にも似たようなテーマが含まれているが、それぞれの福音書には主要なメッセージがある。マルコによる福音書では、繰り返されるモチーフは悔い改めである。これは頻繁に悪霊を追い出すことで表現されている。罪を自覚し、悔い改めることによって、私たちはイエスのもたらす真理を受け取る準備ができるのだ。イエスはこの福音の最初の言葉で、「時は成就し、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1:15).

そしてルカに目を向けると、強調されているのは理解力の改革である。イエスが教える真理によって、私たちは誤った考えを捨て、真の考えを学ぶことができる。ルカでは、新しい理解を深めることが主要なテーマとなる。この福音書の最後で、弟子たちが高いところから力を受けるまで、教えの場であるエルサレムにとどまるようにと言われているのはそのためである。弟子たちが聖句を理解できるように、主は彼らの理解を開かれた」と書かれているのは、ルカ福音書だけである(ルカによる福音書24:45). 34

最後に、ルカによる福音書の終わりからヨハネによる福音書の始まりへと進むにつれて、理解の改革は新しい意志の受容へとつながっていく。これは、主への愛が深まり、主のみこころが私たちを通して働かれるのを経験するにつれて、時間をかけて起こります。これが私たちの中で起こると、私たちは従順からではなく、愛から戒めを守るようになるのです。この福音書でイエスが弟子たちに言われたように、「わたしを愛するなら、わたしの言葉を守るであろう」(ヨハネによる福音書15:17).

さらに、マタイから マルコルカへと続いたイエスの神性というテーマは、ヨハネで頂点に達する。この最後の福音書では、イエスが偉大な "私である "ことがますます明らかになる。これらの "わたしはある "という言葉には、「わたしはいのちのパンである」(ヨハネによる福音書6:35), “私は世の光である」(ヨハネによる福音書8:12), “私はドア」(ヨハネによる福音書10:7), “わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10:11,14), “私は復活であり、命である」(ヨハネによる福音書11:25), “私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6), “私はまことのぶどうの木」(ヨハネによる福音書15:1), そしておそらく最も力強いのは、「アブラハムが存在する以前から、わたしは存在する」(ヨハネによる福音書8:58). ヨハネによる福音書で、トマスがイエスのことを「わが主、わが神」と呼んでいるのはこのためである。ヨハネによる福音書20:28).

ヨハネの最後の言葉、そして四福音書の最後の言葉にさしかかると、私たちはもうひとつの素晴らしいディテール、仕上げに気づく。福音書の最初の言葉が「書」biblos[βίβλος] であるように、福音書の最後の言葉は「書」biblia[βιβλία] である。ヨハネが言うように、「イエスがなさったことは、ほかにもたくさんあるが、それを一つ一つ書き記すとしたら、世界そのものでさえ、書き記すことのできる書物を収めることはできないだろう」(ヨハネによる福音書21:25). 原語のギリシャ語では、最後のフレーズ「書かれうる書物」はta graphomena biblia[τὰ γραφόμενα βιβλία] である。

マタイの最初の "書物 "からヨハネの最後の "書物 "への変化は、主の資質が無限であることを示唆している。この世のすべての書物は、主の限りない愛と憐れみ、知恵と強さ、忍耐と執念を描写することも、記述することもできない。主の神聖な資質は、海のすべての砂や天のすべての星よりも偉大である。 35

福音書は、天地の唯一神であるイエスを私たちに紹介する。福音書が "書 "で始まり、"本 "で終わるのは偶然ではない。それは、4つの福音書がまさに継ぎ目のない衣服であり、上から一枚一枚織り上げられたものであることを示している。もし私たちが神を受け入れようとするならば、神はどのようにして私たち一人ひとりの人生に現れ、すべての愛、すべての知恵、そして有用な奉仕のためのすべての力の源である主イエス・キリストとしてご自身を徐々に現されるのか、その継ぎ目のない物語なのである。

このことを知り、イエスの教えを心に刻むと、私たちはイエスに従うようになる。継ぎ目のない福音の物語を紡いでおられるお方が、私たちの人生の創造者でもあることに気づくのです。ほとんどの場合、私たちは、イエスが私たちの間を動き回り、その摂理の秘密の働きによって私たちの人生の出来事を織りなし、つなげてくださる奇跡的な方法を目にすることはない。主が私たちの内に働かれ、すべての経験を私たちの永遠の幸福のための機会に変えてくださる、その多様な方法を誰が知ることができようか。 36

それゆえ、ヨハネが福音書の最後に、"イエスのなさったことは他にもたくさんあり、それをひとつひとつ書き記すとしたら、この世にだって書き記すことのできる書物を収めることはできないだろう "という言葉で締めくくるのも不思議ではない。アーメン" 37

脚注:

1真のキリスト教774: “主は、悪人であれ善人であれ、すべての人と常に共におられる。しかし、主が来られるのは、主を受け入れる者に限られ、それは主を信じ、主の戒めを守る者たちである。主の永遠の臨在こそが、人に理性の能力を与え、霊的になる能力を与えるのである。"参照 インバウンド23: “人々が思考し、理解し、意思を持つことができるのは、主の永続的な臨在のおかげである。これらの能力は、ただ主からの生命の流入によるものである。"

2結婚愛316: “また、弟子たちに舟の右側に網を投げるように言われ、そうするとたくさんの魚が獲れた。これは、弟子たちが慈愛の善を教えるべきであり、そうすることによって人々が集まってくるという意味であった。"参照 神の愛と知恵127: “天使にも人にも、右側と左側がある。右側にあるものはすべて、叡智の源である愛と関係がある」。参照 黙示録の説明 513:16: “なぜなら、『漁をする』とは、真理と善の知識を教え、改革することを意味するからである。主が彼らに『舟の右側に網を投げるように』と命じられたのは、すべてのことが愛と慈愛の善に由来するものであるべきことを意味していた。"右側 "とは、すべてのことがそこから生まれるべき善を意味している。

3アルカナ・コエレスティア 10227:2: “こうして、真理と善は何一つ自分自身から出たものではないと認められるからである。このことが認められるのに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに、虚偽と悪からの厚い闇が去る。それと同じ割合で、その人は無垢になり、主への愛と信仰を持つようになる。"参照 天界と地獄271: “主への愛は......心の内部を開き......あらゆる知恵の受け皿となる"

4生命の教義9: “人はまったく同じことを神からしているかもしれないし、自分からしているかもしれない。もし彼らが神からこれらのことをしているなら、それは良いことである。参照 黙示録の説明 513:16: “彼らは一晩中労苦したが、何も取らなかった』とある。これは、自分から、あるいは自分の所有物からは何も生まれず、すべてのものは主から与えられることを意味している」。

5天界の秘義7863: “彼らの腰に帯を締めよという要求は、主からの善と真理の流入を受け、また流入したものに従って行動する準備が適切に整っていることを意味する。すべての帯と衣服は、人がそれを受け取り、行動する準備が整った状態を意味する。110:3も参照のこと。"神の戒めである秩序の法則に従った生活によって、人々が自らを神に結びつける限りにおいて、神は自らを人々に結びつけ、彼らを自然的なものから霊的なものへと変える。"

6新エルサレムと天界の教義15: “隣人に対する慈愛とは、あらゆる仕事、あらゆる働きにおいて、善であり、正義であり、正しいことを行うことである」。

7天界の秘義5071: “人の中にある命の火は、人が何を愛するかによって燃え上がる。天の火は善なるもの、真実なるものを愛することによって燃え上がり、地獄の火は悪なるもの、偽りを愛することによって燃え上がる。あるいは、天の火は主への愛と隣人への愛によって燃やされ、地獄の火は自己愛とこの世への愛によって燃やされる。"

8真のキリスト教746: “人が最初に創造されたとき、知恵とその愛が吹き込まれたのは、自分のためではなく、自分から他の人に伝えるためだった。それゆえ、賢者の知恵には、自分だけのために生きる者は賢くないが、他者のためにも生きる者は賢いと書かれている。それが社会の原点であり、そうでなければ社会は存在しえないのである。"関連記事 真のキリスト教406: “しかし、その目的は、それによって、同胞、社会、国、教会、ひいては主に仕えることができる状態になることであるべきだ」。

9黙示録の説明 820:6: “なぜなら、「ヨナの子シモン」は慈愛からの信仰を意味し、「シモン」は耳を傾けることと従順を意味し、「ヨナ」は慈愛を意味する鳩を意味するからである。主への愛から真理の教理にある者が、主の教会となる者たちを指導することは、主が『わたしを愛するか』と尋ねられ、その後に『わたしの子羊を養いなさい』『わたしの羊を養いなさい』と言われたことの意味するところである。ペテロだけが指導するのではなく、ペテロに代表されるすべての人々が指導するのである。"ペテロは、すでに述べたように、主への愛にある人々であり、主からの真理にある人々である。参照 天界の秘義10787: “主を愛するとは、主から出た戒めを愛すること、つまり、この愛から戒めに従って生きることである。"

10黙示録の解説 950:3: “わたしの前に他の神々を持ってはならない』という戒めには、自己と世を何よりも愛してはならないということが含まれている。

11天界の秘義561: “しかし、遺物とは何だろうか。それは、人々が幼児期から主の御言葉から学び、それによって記憶に刻まれた財と真理だけでなく、そこから派生したすべての状態、たとえば幼児期からの無垢の状態、両親、兄弟、教師、友人に対する愛の状態、隣人に対する慈愛の状態、貧しい者や困窮者に対する憐れみの状態、一言で言えば、すべての善と真理の状態である。これらの状態は、記憶に刻まれた財と真理とともに、遺物と呼ばれる......。これらの状態はすべて、主によって人々の中に保存され、少しも失われることはない。"参照 アルカナ・コエレスティア1050:2: “しかし、これらは人が学ぶのではなく、主からの賜物として受け、主がその中に保存しておられる状態である。信仰の真理とともに、それらはまた『遺物』と呼ばれるものであり、主のみものである......。人々が再生されるとき、これらの状態は再生の始まりであり、彼らはそこに導かれる。"主は遺物を通して働かれるからである。

12天界と地獄281: “無邪気さとは、主に導かれることをいとわないこと......。無垢でなければ、真理を善に、善を真理に結びつけることはできない。だからこそ、天使たちは、その中に純真さがなければ、天の天使ではないのである。"参照 黙示録の説明 996:2: “無邪気さとは、主を父として愛することであり、主の戒めを守り、自分ではなく主に導かれることを願うことである。

13天界の秘義7840: “あらゆる善には、それが善であるために無邪気さがなければならない。無邪気さがなければ、善は魂がないのと同じである。それは、主が無垢によって流れ込み、それによって、再生されつつある者たちとともに善を生き生きとさせるからである。"

14アルカナコエレスティア1298:3: “みことばの中で、石は聖なる真理を表している......。これらの聖なる真理は、律法の戒め、すなわち十戒が書かれた石の台が意味していた。戒めそのものが信仰の真理にほかならないからである。"

15黙示録の説明 798:6: “霊的な心が開かれない限り、人は慈愛から善を行うことはできない。霊的な心が開かれるのは、人が悪を行うことを慎み、悪を避け、最終的に悪から遠ざかることによってのみである。人々が[最初に]悪を避け、悪から離れるとき、その人が考え、意志し、行うすべてのことは、主からのものであるから、善である。"参照 真のキリスト教330: “悪を避ける限り、人は善を行う。たとえば......殺人を犯そうとしたり、憎しみや復讐心から行動したりすることを慎む限り、人は隣人に幸福を願う。姦淫の願望を慎む限り、人々は配偶者と貞淑に暮らしたいと願う。盗みを犯そうとしない限り、人は誠実を追い求める。虚偽の証言をすることを慎む限り、真実のことを考え、言うことを望む......。これらのことから、十誡の戒めには神への愛と隣人への愛がすべて含まれていることが明らかである。"参照 仁愛の教義13: “慈愛の第一のことは、主を仰ぎ、悪を罪として避けることであり、慈愛の第二のことは、善を行うことである"。

16アルカナコエレスティア6073:2 “天にいる天使たちは、主から受けた善に支配されているので、有益な奉仕を行うこと以上に大きな望みはない。これらは彼らの人生の喜びそのものであり、有益な奉仕を行う分だけ、彼らは祝福と幸福を享受する。"参照 天界の秘義10131: “子羊 "は無垢の善を意味し、無垢の善は主を受け入れる唯一のものである。"無垢の善なしには、主への愛も、隣人への慈愛も、命を宿す信仰もあり得ないからである。参照 天界の秘義9391: “御言葉の中で、"子羊 "は無垢の善を意味し、"羊 "は内的あるいは霊的な人における慈愛の善を意味する」。

17天界と地獄217: “隣人に対する慈愛は、その人の人生のあらゆる事物や一つひとつの事柄に及ぶ。それはまた、善を愛し、善と真理への愛から善を行い、さらに、あらゆる機能とあらゆる仕事において、公正なものへの愛から公正なことを行うことを含む。これが隣人を愛することである。"

18天界の秘義315: “天使はすべての人を愛し、親切な奉仕をし、指導し、天国へ運ぶこと以外には何も望まない。これが彼らの最高の喜びである。

19アルカナコエレスティア 3994:5: “ペテロ」とは、ここでも他の場所でも、信仰を意味する。信仰は、隣人に対する慈愛から来るものでなければ、信仰ではない。同様に、慈愛や愛も、無邪気さから来るものでなければ、慈愛や愛ではない。このような理由から、主はまずペテロに、自分を愛しているかどうか、つまり信仰に愛があるかどうかを尋ねられ、次に『わたしの子羊たちを養いなさい』と言われる。そして、同じ質問の後、主は『わたしの羊を養いなさい』と言われる。参照 天界の秘義2839: “信仰なき慈愛は真の慈愛ではなく、慈愛なき信仰は信仰ではない。慈愛があるためには信仰がなければならず、信仰があるためには慈愛がなければならない。参照 真のキリスト教 367:2-3: “慈愛と信仰が本物であるためには、意志と理解力を分離することができないように、両者を分離することはできない。もしこれらが分離されれば、理解力は衰え、やがて意志も......。慈愛は意志に宿り、信仰は理解力に宿るからである。"

20真のキリスト教727: “原始キリスト教会における祝祭は慈愛の祝祭であった。"その祝祭では、真摯な心で主への礼拝にとどまることができるよう、互いを強め合った。

21天界の秘義9586: “愛の喜びから悪を行うことは自由のように見えるが、それは地獄からのものであるから、奴隷である。愛の喜びから善を行うことは自由のように見えるが、それは主からのものなので、自由でもある。それゆえ、地獄に導かれるのは奴隷であり、主に導かれるのは自由である。主がヨハネの福音書で教えておられるように、『罪を犯す者はみな、罪の奴隷である』(ヨハネによる福音書8:34).”

22天界の秘義10087: “若いときには、自分で帯を締め、自分の望むところを歩いた。しかし、年をとれば、手を伸ばし、別の者が帯を締め、自分の望まないところへ導くだろう』という言葉は、教会の信仰が、その初期の段階では、幼い子供のように無邪気さという善を持っていたことを意味している。しかし、教会の最終段階である衰退期に入ると、信仰はもはやその善も慈愛の善も持たなくなり、その時点で悪と偽りが教会を導くことになる。このようなことが、"老いたとき、手を伸ばせば、別の者が帯を締め、あなたの望まないところへあなたを導くだろう"、つまり、自由から束縛の中に入っていくことを意味しているのである」。

23アルカナ・コエレスティア10134:9: “教会の最初の状態は幼児期であり、無垢な状態であり、その結果、主を愛する状態でもある。この状態は「朝」と呼ばれる。第二の状態は光の状態である。第三の状態は、不明瞭さの中に置かれた光の状態であり、これはその教会の『夕方』である。そして第四の状態は、愛もなく、その結果光もない状態であり、これがその教会の『夜』である。"参照 啓示された黙示録9[4]: “どの教会も最初は慈愛から始まるが、時間の経過とともに信仰へと衰退し、ついには信仰だけになる。これは、教会の最後の時期になると、信仰が慈愛の善を拒むような質になってしまうからである。"信仰だけが教会を構成し、救うのであって、慈愛である生活の善を拒むのではない "と。

24アルカナコエレスティア10087:4: “ヨハネが主に従っているのは、慈愛の財にある者たちが主に従い、主に愛され、引き下がらないことを意味し、信仰から離れている者たちは、主に従わないばかりか、当時のペトロのように、そのことに憤慨している。"

25黙示録1000:4: “真の夫婦愛にある者たちは、死後、天使となったとき、初々しい男らしさと若々しさに戻り、男たちは歳をとっても若い男となり、妻たちは歳をとっても若い女となる......。善には真理を絶えず愛そうとする努力があり、真理には善を絶えず愛そうとする努力がある。その努力から、人々は老いの厳しさ、悲しみ、乾きをすべて脱ぎ捨て、若さの活気、喜び、新鮮さを身につける。その努力から、彼らは喜びとなる生命の充満を受ける。"参照 天界と地獄414: “一言で言えば、天国で年を取るということは、若くなるということだ」。

26アルカナコエレスティア6073:3: “ペテロは憤慨して言った、『主よ、これは何ですか』。イエスは彼に言われた。わたしについて来なさい』。このことによっても、信仰が行いを軽んじることが予告されていた。

27アルカナコエレスティア10087:3: “ヨハネが主に従っていることに関して、これは、慈愛の善行を行う者は主に従い、主に愛され、主から離れないが、信仰が慈愛から切り離されている者は、主に従わないばかりか、その真理(すなわち、信仰が善行と結びつかなければ救いはないという真理)に怒りを覚えるという真理のしるしであった。"参照 アルカナコエレスティア 7778:2: “慈愛を伴わない信仰は信仰ではなく、信仰にかかわる事柄を記憶する知識にすぎない。信仰の真理は、その究極的な目的として慈愛を見据えているからである。"

28黙示録の説明 785:5: “特に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、信仰、慈愛、善行をその順序で表していた-ペテロは信仰を、ヤコブは慈愛を、ヨハネは善行を。ペテロがヨハネが主に従っているのを見て、主がペテロに言われたのはこのためである。ペテロがヨハネのことを『これは何ですか』と言ったからである主の答えは、善い行いをする者は主に従いなさいという意味であった......。教会が善い行いをする者のうちにあることは、主が十字架の上から言われた言葉にも示されている......『女よ、御子を見よ』。主はその弟子(ヨハネ)に言われた、『御母を見よ』。これは、善い行いのあるところに教会があることを意味している」。

29アルカナ・コエレスティア 3900:9: “主の到来とは、主が再び世に現れるという文字通りの意味ではなく、すべての人の中に主がおられることであり、福音が宣べ伝えられ、聖なるものが思い起こされるときはいつでも、このことが存在する。"参照 アルカナコエレスティア6895:2: “主の来臨とは、天使たちとともに雲に乗って現れることではなく、愛と信仰によって人々の心に主を受け入れることであり、また、みことばの内側から人々に現れることである。"参照 真のキリスト教774: “主の来臨は、熱と光を併せ持つ者、すなわち愛と真理を併せ持つ者とともにある。"

30新エルサレムと天界の教義6: “聖なる都、新しいエルサレム "と言われるのは......言葉の霊的な意味において、都市や町は教義を意味し、聖なる都は神の真理の教義を意味するからです」。

31啓示された黙示録104: “どの教会も慈愛から出発し、次第に信仰だけ、あるいは功徳的な行いへと遠ざかっていく」。

32啓示による黙示録解説73: “エペソの教会とは、教理の真理を第一とし、生活の財貨を第一としない教会の人々のことである」。

33啓示による黙示録解説867: “そして、書物が開かれ、もう一冊の書物が開かれた。それは、命の書物である。これは、すべての人の心の内部が開かれたことを意味し、天からの光と熱の流入によって、愛や意志に由来する感情、そこから信仰や理解力に由来する思考、そして善と同様に悪についても、その質が見られ、知覚された...。なぜなら、すべての人の心の内部には、その人がこの世で意志や愛から考え、意図し、話し、行ったこと、それから理解や信仰から考えたことのすべてが刻まれているからである。"

34アルカナ・コエレスティア 3863:3: “理解、すなわち真理を理解することへの信仰が、意志、すなわち真理を意志することへの信仰に先立つことは、誰にでも明らかなはずである。"人にとって未知のもの(天の善など)があるとき、人はそれを意志する前に、まずそれが存在することを知り、それが何であるかを理解しなければならない。

35真のキリスト教37: “愛と英知は、神の中にある、あるいは神から発せられるすべての無限の特質を帰属させる2つの本質である」。

36啓示された黙示録10[2]: “主を認めることは、教会におけるすべての教義の生命であり、魂である」。参照 真のキリスト教280:5: “霊的な考えは超自然的なものであり、表現できず、筆舌に尽くしがたく、地上の人間には理解できない。したがって、霊的な考えや思いは超越的なものであるため、......考えを超えた考えや思い、質を超えた質、感情を超えた感情を表現するのです」。

37アルカナコエレスティア5202:4: “善良である人は、幼児期からこの世での生涯の最後の時期まで、そしてその後永遠に至るまで、刻々と生まれ変わる。参照 アルカナコエレスティア 6574:3: “普遍的な霊的世界には、主から生じる目的が支配している。それは、どんなものであれ、どんな小さなものであっても、そこから善が生じるのでなければ、生じてはならないというものである。それゆえ、主の王国は目的と用途の王国と呼ばれている。"

スウェーデンボルグの著作から

 

天界の秘義#3863

この節の研究

  
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3863. 「言った。エホバがわたしを顧みられた」とは、最高の意味では予知を、内的意味では信仰を、準内的意味では理解を、外的意味では視力を指します。ここでは主のみ力による信仰を意味します。これは、「見る(顧みる)」とあるので、その意味から明らかです。

ヤコブの十二人の息子たちから出た十二族は、真理と善、信仰と愛のすべて、つまりは教会のすべてを指していることは、前述したことから明らかです。しかも各部族は、ある種の普遍的特長を意味し、十二族は、十二の普遍的特長を意味します。その普遍的特長は、教会にかんする個々全体を、また普遍的な意味では、主のみ国にかんする万事を、含みもち抱えています。

「ルベン」が意味する普遍的特長は、信仰です。これこそ最初の普遍的特長であって、人が再生して教会になるとき、まず信仰に関する事柄、つまり霊的真理を学び吸収します。信仰の教義、すなわち真理の教義をとおしての導入開始です。

人は天的善が何か、自力では知らないのが現状です。信仰の教義と呼ばれる教義から、それを学びます。信仰の教義は、すべて〈いのち〉を目的にします。善は〈いのち〉を目指しているからです。善が善であるのは、〈いのち〉の善だからです。

② 古代人は、教会の長子権が、信仰に属する真理か、愛に属する善かで、議論がありました。信仰の真理に長子権があると主張した人は、外観からそう結論づけ、人はまず真理を学び、しかも学ばねばならないし、その真理を通して善に導かれるため、真理にこそ長子権があると言いました。

しかしかれらは、本質上、善に長子権があるのを知りませんでした。主は内部人間を通して、善を浸透させてくださいますが、それは外部人間を通して紹介される真理を受け入れ採用するためです。善にこそ、主の〈いのち〉が内在します。善を通さなければ、真理には〈いのち〉はありません。つまり善は真理の魂です。肉体に霊魂があるように、真理を同化し、真理を身につけさせるのは善です。

したがって、人の再生にあたって、真理が長子であるかのように、第一人者であると思うのは、外観からきます。実は、善が本質上第一人者で、長子です。人が再生したとすれば、善のなせるわざです。それについては、3539,3548,3556,3563,3570,3576,3603,3701節を参照してください。

③ 本章も、またこれまでの内容も、自然的人間の再生がテーマです。ここでは、真理を通して善に導き入れられる最初の状態について触れています。ヤコブの最初の息子、ルベンは、「エホバが見られる」という意味で名づけられたのは、そのためです。これは内的意味では、主に導かれる信仰を意味します。

それ自身として見ると、信仰は、理知的信仰 と、意志的信仰 があります。信仰の真理を知り、理解することは、いわゆる理知信仰です。信仰の真理を欲することは、意志的信仰です。

「ルベン」が意味するのは、前者の理知的信仰です。「シメオン」が意味するのは、後者の意志的信仰です。理知的信仰、つまり真理を理解することは、意志的信仰、つまり真理を欲することより先に来るわけは、だれにも分かります。なぜなら、天的善のように未知の事柄は、それを欲する前に、それが実在し、それが何かを理解することが先決だからです。

④ 見るとは、外的意味で、視力を指すことは言うまでもありません。より内的意味では、見るとは、理解することを指すのは当然です。内部人間の視力は、理解力(理性)以外の何ものでもありません。それゆえ理性とは内的視力であると言われています。しかも理性については、外的視力と同じく、光を修飾語にし、「理性の光」などと言われます。

「見る」とは、内的意味では、主のみ力による信仰です。より内部の理性が目指す対象は、真理と善にかかわる事柄、つまり信仰にかかわる事柄でしかありません。より内部の理性とは、内的視力を指し、その対象は、信仰にかんする事柄です。

より内部の理性は、民事的・道徳的生活上の諸真理を対象にする理性ほど、赤裸々(せきらら)ではありません。人がこの世に生きている間、この世的理性を用いながらも、天界の光の中にある場合、その光は、ほの暗いものになるからです。

しかし再生している人には、格別に良心を通して、自明的に開示されています。最高の意味での「見る」には、予知の意味があります。主に当てはまる理知は、無限の理知であって、これは予知以外の何ものでもありません。

⑤ ルベンの命名の元になった「見る」は、内的意味では、主の力による信仰を指します。これは〈みことば〉の多くの個所から明らかです。その中から紹介します。モーセの書には、次のようにあります。

「エホバはモーセに言われた。あなたのためにヘビを造り、それを旗竿の上に掛けなさい。噛まれた者がそれを見れば、生きる、と。モーセは青銅でヘビを造り、それを旗竿の上に掛けた。すべてヘビに噛まれた者は、その青銅のヘビを見て生きた」(民数 21:8,9)。

「青銅のヘビ」とは、外面の感覚性、すなわち自然性の面での主を表わします(197節)。「青銅」は自然性です(425,1551節)。見た者、つまりそれを注視したものが生きた事実は、主への信仰を表象します。主ご自身、ヨハネによる福音書で次のように教えておられます。

「モーセが荒野でヘビを上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、かれを信じる者が滅びないで、すべて永遠の〈いのち〉得るためである」(ヨハネ 3:14,15)。

⑥ イザヤ書には次のようにあります。

「主は言われた。行って、この民に言いなさい。よく聞きなさい。しかし悟ってはならない。よく見なさい。しかし悟ってはならない。この民の心を鈍くし、耳を聞えにくくし、目を閉ざしなさい。かれらが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らずにいるようになるためである」(イザヤ 6:9,10)。

上掲で、「よく見ても悟らない」とは、真理であることを理解しても、承認しないということです。「目で見られないように、目を閉ざす」とは、真理の理解に欠けることで、この「見る」は、主への信仰であることは、マタイ 13:13,14,ヨハネ 12:36,37,39,40にある主の〈みことば〉から、明らかです。

⑦ エゼキエル書には次のようにあります。

「人の子よ、あなたは反逆の家の中に住む。見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞かない」(エゼキエル 12:2)。

「見る目があるが見ず」とは、信仰の真理を理解できるのに、理解したくないことを言います。それは「反逆の家」と言われる悪が邪魔します。これは偽りによって光を捏造し、真理を暗闇でかげらせます。イザヤ書には次のようにあります。

「かれらは、反逆の民、嘘つきの子らである。エホバの律法を聞こうとしない子らである。かれらは先見者にたいして見ないように言い、預見者にたいしては、正しい事をわれわれに預言せず、まやかしを語り、迷いごとを預言せよと言う」(イザヤ 30:9,10)。

イザヤ書には次のようにあります。

「暗闇の中に歩む民は大いなる光を見た。死の陰の地に住む人々の上に光が輝いた」(イザヤ 9:2)。

「大いなる光を見る」とは、信仰の諸真理を受け入れ、信じることを言います。信仰を宿している人々の上に「光が輝きます」。天界にある光は、神の善による神の真理です。

⑧ 同じく、次のようにあります。

「エホバは、昏睡の霊をあなた方の上に注ぎ、あなた方の目なる預言者を閉じこめ、あなた方の頭なる先見者を覆われた」(イザヤ 29:10)。

「目を閉じさせる」とは、真理を理解できないようにすることです。目とは理性です(2701節)。「先見者を覆われる」とは信仰の諸真理を知り、教える人々です。「先見者(見る人)」とは、昔から預言者を指し、教える人、また教義上の諸真理を教える人を指します(2534節)。同じく、

「祭司と預言者とは濃き酒でよろめき、・・・迷う先見者たちの仲間で、裁きを行うとき躓く」(イザヤ 28:7)。

これも同様です。裁きで躓くとは、信仰の真理でつまずくことです(2235節)。

同じく、

「見る者の目は閉じることなく、聞く者の耳はよく聞いた」(イザヤ 32:3)。

⑨ 同じく、次のようにあります。

「あなたの目は、麗しく飾った王を眺め、遠くにある土地を見る」(イザヤ 33:17)。

「麗しく飾った王を眺める」とは、主による信仰の諸真理を指します。これはいわゆる善に基づく麗しさです。「遠くにある土地を見る」とは、愛に属する善です。「王」とは、信仰の真理であり(1672,2015,2069,3009,3670節節参照)、「麗しさ」は、善に基づくものです(553,3080,3821節)。「地」とは、愛に属する善です(620,636,3368,3379節)。マタイ福音書に、次のようにあります。

「心の清い人は、さいわいである。神を見るからである」(マタイ 5:8)。

「神を見る」とは、神ご自身を信じることであり、神ご自身を信仰によって見ることです。信仰を宿している人は、信仰に根ざして神を見ます。神は信仰のうちにましまし、神はまさに信仰そのものの中にいます方だからです。

⑩ 同じく、

「もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。・・・両眼がそろって地獄の火に投げ入れられるより、片目で〈いのち〉に入る方がよい」(マタイ 18:9)。

上掲でもそうですが、「目」と言っても実際の目を指しているのではなく、実際に抜き出すわけでもないことは明らかです。ここでの「目」は、信仰の理解を意味し、躓かない人です(2701節)。「両眼がそろって地獄の火に投げ入れられるより、片目で〈いのち〉に入る方がよい」とは、信仰の真理を知り、理解しながら、悪の〈いのち〉に生きるより、信仰の真理を知らず、理解しないほうがましであると言う意味です。

⑪ 同じく、次のようにあります。

「あなた方の目は見、耳は聞いているから、さいわいである。あなた方によく言っておく。多くの預言者や義人は、あなた方の見ていることを見たいと切望したが、見ることができなかった」(マタイ 13:13-17ヨハネ 12:40)。

「見る」とは、主への信仰に関することを知り理解すること、つまりは信仰を意味します。主を見たり、主のなさる奇跡を見ることがさいわいなのでなく、主を信じることが幸いです。それは次のヨハネの福音書の〈みことば〉にあります。

「あなた方はわたしを見たが信じないと、わたしは言った。・・・わたしの父のみ旨は、子を見て信じる者が、みな永遠の〈いのち〉を得ることである。・・・だれも父を見た者はいない。ただ父のもとにある者だけが父を見た。よく言っておく。信じる者には、永遠の〈いのち〉がある」(ヨハネ 6:36・40,46,47)。

「見るけれども信じない」とは、信仰の諸真理を知っているけれど、受け入れないことです。「見て信じる」とは、知っていて、受け入れることです。「父のもとにある者しか父を見ない」とは、神の真理を通さないかぎり、神の善を承認することができないという意味です。「父」とは、神の善であり、「子」とは、神の真理です(3704節参照)。したがって、主を承認しないかぎり、だれも天的善を得られないという内的意味があります。

⑫ 同じく、次のようにあります。

「神を見た者はだれもいない。父の胸中にましますおんひとり子だけが、神をあらわした」(ヨハネ 1:18)。

同じく、

「(イエスは言われた。)わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見る。わたしは光としてこの世に来た。わたしを信じる者が、闇の中に留まらないためである」(ヨハネ 12:45,46)。

明言されているように、「見る」とは、信じること、信仰をもつことです。同じく、

「(イエスは言われた。)もしあなた方がわたしを認めたら、わたしの父も認めるはずである。今は父を認めた以上、父を見たことになる。・・・わたしを見た者は、父を見たことになる」(ヨハネ 14:7,9)。

同じく、

「この世は、真理の霊を受けることができない。見ることもないし、認めることもしない。・・・わたしはあなた方を孤児として去っては行かない。あなた方のところに帰って来る。しばらくしたら世はすでにわたしを見なくなる。しかし、あなた方はわたしを見る。わたしが生きるので、あなた方も生きるからである」(ヨハネ 14:17-19)。

「見る」とは、信仰をもつことです。信仰をとおしてだけ、主が見えてきます。信仰とは、愛の目です。愛の力により、信仰を通して、主が見えてきます。愛は信仰の〈いのち〉です。そのため、「あなた方はわたしを見る。わたしが生きるので、あなた方も生きる」と言われています。

⑬ 同じく次のようにあります。

「イエスは言われた。わたしがこの世に来たのは、裁き(公正)のためである。見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが盲目になるためである、と。・・・パリサイ人たちが、では、わたしたちも盲目ですか、と言うと、イエスはかれらに言われた。もし盲目だったら、罪はなかった。しかし見えると言うので、あなたがたの罪は残る」(ヨハネ 9:39-41)。

「見える人」とは、自分が他の人々より賢いと思っている人です。そのような人は、「盲目である」、すなわち信仰を受け入れないといわれています。「見えない」すなわち盲目であるとは、偽りの中にいる人々、無知である人々を指します(2383節参照)。ルカによる福音書には、次のようにあります。

「あなた方には、神の国の秘義を知る機会が与えられている。しかし他の人々は、見ても見えず、聞いても聴かないため、例えによる」(ルカ 8:10)。

同じく、

「本当にあなた方に言う。神のみ国を見る時が来るまで、死を味あわない者が、ここに立っている者の中にいる」(ルカ 9:27マルコ 9:1)。

「神のみ国を見る」とは、信じることです。同じく、

「イエスは弟子たちに言われた。あなた方は、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来る」(ルカ 17:22)。

上掲は、代の終わりを指しています。信仰がすべて失われたときの教会の終末期です。

⑭ 同じく、次のようにあります。

「かれらと一緒に食卓につかれたとき、イエスはパンを取り、祝福して割き、かれらに渡されると、かれらの目が開けて、それがイエスであると分かった」(ルカ 24:30,31)。

上掲は、主が善を通して出現されたことを意味します。善の欠けた真理を通してではありませんでした。「パン」とは、愛の善だからです(276,680,2165,21773478,3735,3813節)。

以上と他の多くの個所から、「見る」とは、主のみ力による信仰であるという内的意味があることが明らかです。なぜなら、信仰と言える信仰で、主のみ力に依存しない信仰は存在しないからです。この信仰あってこそ、人は見ることができ、信じることができます。

自力による信仰、すなわち人のエゴから出る信仰は、信仰ではありません。そのような信仰は、偽りを真理と見誤り、真理を偽りと見誤ります。たとえ真理が真理のように思えても、信じないから、見ることはありません。諸真理の中に自分を見るだけで、主を見ていません。

「見る」とは、主への信仰をもつことです。それは天界の光について再三述べてきたことからも明らかです。天界の光は、主の力によるもので、理知と英知を含んでおり、そのため主への信仰を伴っています。主への信仰には、その内部に理知と英知があり、その光から見ることです。天使たちは、そのように見ています。主への信仰には、それ以外の意味はありません。

主ご自身もまた、主から発出する光のうちにおられます。その光はまた、主への信仰をもつ人の良心の中を照らします。肉体の中に生きている間、人はそれに気づきません。この世の光が、天界の光を曇らせているためです。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.

スウェーデンボルグの著作から

 

Apocalypse Explained#798

この節の研究

  
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798. To blaspheme His name, signifies by falsifying all the quality of Divine truth or the Word. This is evident from the signification of "blaspheming," as being to falsify the Divine truth, thus the Word, which is from the Lord and which is the Lord (See just above, n. 797; also from the signification of "name," as being the quality of a thing or state (See above, n. 148, 676), here all the quality of Divine truth or the Word; because it is said "His name," that is, "the name of God." "The name of the Lord" means in the Word every good of love and every truth from that good from which He is worshipped (See above, n. 102, 135, 696). From this it is clear that "to blaspheme the name of God" signifies to falsify all the quality of the Divine truth or the Word, also every good and truth by which the Lord is worshipped. That those who separate faith from good works both in doctrine and life falsify all the quality of the Divine truth, or all things of the Word, has been explained in the preceding article. This can be concluded from what has been frequently said above, namely, that such shut out love and charity, from which works become good and from which faith derives its essence, that these may not, together with faith, be means of salvation; thus they not only falsify those passages of the Word that teach about love to God and love toward the neighbor, but also those passages where "works," "deeds," "working," and "doing," are mentioned; and when these are falsified all things of the Word are also falsified; for the remaining things of the Word, which are called its truths, live from these; and when life is withdrawn the other things are dead. Furthermore, there is everywhere in the Word the marriage of good and truth, as has been frequently said and shown above; consequently when good is taken away the truth that remains is falsified, and truth falsified is falsity. That all things of the Word are falsified by reasonings that confirm faith alone or faith separate will be illustrated by several examples at the end of this chapter, where the signification of the number "six hundred sixty-six" will be explained.

[2] Since in the Christian churches in which faith alone is received as the head of their doctrinals there are those who are learned and those who are simple, also those who separate faith from the goods of life and those who conjoin faith with these, thus those who falsify the Word much and those who falsify it little, and since the preceding article treated of those who so falsify the Word as altogether to close heaven to themselves, so now those shall be treated of who do not so falsify the Word as to close heaven to themselves. These are such as confirm with themselves that the faith that justifies and saves produces goods of life as a tree does fruits. With those who confirm that doctrine in the life heaven is not closed, but its lowest part, where there is an entrance, is open. The reasons are as follows:

[3] First, although they invert the Divine order, which is that charity produces faith, and not that faith produces charity, yet with those who confirm that conjunction in doctrine and in life that inverted order can afterwards be reversed; and when it has been reversed they enter heaven in its lowest parts. They do not enter interiorly because their faith, by which they believed themselves to have been justified and saved, is derived more from falsities than from truths; and in the lowest parts of heaven are they who are in falsities from doctrine and religion and yet are in the good of life. Their falsities are appearances of truth from the sense of the letter of the Word, all of which have life as their end. It is almost similar with everyone who is being reformed; he first forms doctrine for himself out of the Word, and distinguishes in it between the things that are to be believed and the things that are to be done. The things that are to be believed he calls faith, and the things that are to be done he calls charity, but as the order with everyone has been reversed from birth he looks to faith in the first place and charity in the second. Yet if he lives the life of faith, which is charity, the order is by degrees turned about and restored; and from charity he lives faith. Then so far as his faith is from genuine truths he enters heaven; for, as has been said above, the Divine truth proceeding from the Lord makes heaven and is heaven. From this it can be seen how at the present day faith has become the first and chief thing of the church, namely, because they have followed the order reversed from birth, and because they have been satisfied with the life of the world, and have been led by the pride of self-intelligence; and for this reason they have stopped at the first stage of reformation.

[4] The second reason that such do not close heaven to themselves is, that good works are love and charity in act, and it is from these that heaven is heaven; for all angels and all spirits are affections and thoughts therefrom; or what is the same, are loves and intelligences therefrom; and there are two loves that are the universal and fundamental loves of all, namely, love to the Lord and love towards the neighbor, which is called charity. In these loves are all who do goods from the Word; for all good is of love. Now since those who confirm with themselves in doctrine and life the belief that faith produces good works as a tree does fruits look from faith to good, therefore they have conjunction with heaven, not however with the spiritual heaven, but with the natural heaven, which is in things ultimate and may be called the entrance. Such cannot be admitted more interiorly for the reason that until faith becomes charity in form it is natural, and the natural can produce only what is natural. It is otherwise when faith becomes faith from charity; then faith becomes spiritual because charity, from which is faith, is spiritual. With these the spiritual mind is opened, but with the former only the natural mind is opened; yet this is opened more deeply and interiorly according to the quality of the faith and the quality of the life therefrom. The mind of these, viewed in the light of heaven, appears snowy, such as rational light is; and the rational is intermediate between the spiritual mind and the natural mind.

[5] Thirdly, if the state of the mind and life of those who believe that faith produces good works, and who also do them, is explored more interiorly, it will be seen that they are interiorly natural; since their faith is simply a knowledge of the commandments of the Word; and when the interior natural sight, which is called the rational, enters into this faith, an acknowledgment is produced that those commandments are Divine; and when love becomes active in this acknowledgment it becomes obedience. But the love that operates into this acknowledgment can be no other than a love of reward for the goods done, and to them this reward is eternal life. And as love of reward is not from God but from man, for in reward man regards his own good and not the good of the neighbor, it follows that this love is natural; consequently that the state of mind and life of those who believe that faith produces good works, and who do them according to their faith, is natural. But if they do not do good works from obedience, the love that leads them is the love of the glory that comes from erudition, or the love of the reputation that comes from being raised to honors, or from gaining riches. Such, however, merely say that they acknowledge and believe; in heart they do not acknowledge or believe; therefore they are the lowest natural, and heaven is altogether closed to them.

[6] In order that it may be known that to do good from obedience is from the natural man it shall be told briefly what it is to do good from charity. No one can do good from charity unless his spiritual mind is opened, and the spiritual mind is opened only by man's abstaining from doing evils and shunning them, and finally turning away from them because they are contrary to the Divine commandments in the Word, thus contrary to the Lord. When man so shuns and turns away from evils all things that he thinks, wills, and does, are good because they are from the Lord; for the Lord is continually present, knocks at the door, is urgent and wishes to enter, but evils oppose; therefore man must open the door by removing the evils, for it is only when evils are removed that the Lord enters and sups there (Revelation 3:20). It is said that man opens and removes, because it is from self that man does evils; and inasmuch as the Lord is continually present, knocks at the door, and is urgent, as has been said, man has the ability to refrain from evils as if of himself; this ability is also given to every man. This is why, since man can of himself close heaven to himself he can also as if of himself open heaven, provided he thinks and wills to refrain from evils, looks to the Lord, and when he refrains acknowledges that it is from the Lord. When, therefore, evils have been removed, whatever man does is good, since it is from the Lord; and whatever man does from the Lord is not natural-moral, but is spiritual-moral. Since, then, charity is from the love of doing good for the sake of good, thus from good, consequently from the Lord, it follows that doing good from charity is spiritual, but doing good from obedience, since it is from a love of reward, is natural. Such is the natural in which those are who are in the entrance to heaven; and to this those come who do good only from obedience, who are such as confirm in themselves, in doctrine and life, that faith produces good works as a tree does fruits.

[7] Fourthly, moreover it is to be known that those who believe that faith produces good works as a tree does fruits believe also that heaven is allotted them before evils are removed; and yet so long as evils are with man whatever goods he does are not good, for from an evil tree no other than evil fruits spring forth; therefore the only way to heaven is for man from the Word to abstain from evils because they are sins, which unless they be first removed, the Lord cannot enter and bestow heaven.

[8] The fifth reason why those do not close heaven to themselves who confirm themselves in doctrine and life in the belief that faith produces good works as a tree does fruits, is, that they do not falsify the Word as those do who believe in justification and salvation by faith without good works. Those who believe in a faith without good works falsify all things of the Word that mention and enjoin love, charity, goods, works, deeds, working, and doing; and this they do even to the destruction of the Divine truth in the heavens, by understanding them as meaning either faith, or the moral and civil goods of the world, or as having been said merely for the common people on account of the simplicity of their faith. Thus they destroy the Divine truth itself by arguments from man's inability to fulfill the law, by the nature of the good that is from man as not being good, and by the removal of the merit that inheres in goods from man. But those who in simplicity join good works to faith do not falsify all those things of the Word, and thence do not remove faith from the love to God, and thereby remove the Divine operation in all the particulars to be done by man, as also in all the particulars to be believed by man; for they think and say that good works are to be done as if by man, for he who does not act and believe as if of himself believes nothing and does nothing, and has no religion. And yet, since they have no genuine truths, while they do not close heaven to themselves they can advance no farther than to the threshold of heaven. To such of them, however, as have loved truths for the sake of truths heaven is opened when the Divine order has been restored with them, and that is done when charity and its good are in the first place, and faith and its truths in the second, for they are then like those who go on in a straight way with the face looking forward, while before they were like those who go with the face looking backward.

[9] Sixthly, there are also many who make charity the essential means of salvation, as others do faith, and yet do not live the life of charity; but since their charity is merely a confession of the mouth that this is the truth, it is their faith alone; therefore their charity likewise is not living but dead, and in consequence they differ very little from the confessors of faith alone, having a like heart but an unlike soul, but yet the one like the other closes heaven to himself.

  
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Thanks to the Swedenborg Foundation for their permission to use this translation.